[最近の顕正会の動向・浅井会長の発言の矛盾 ]

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9・10・11月法戦における女子部の折伏成果にツッコミ

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上の写真は顕正新聞H26年12月5日号の第4面における、「9・10・11月折伏成果 3者内訳」。

いやぁ、たまげました。

「1名」って何ですか?
8月からカウントして、「4カ月間」。何やってたんですか?

もはや「区」としての存在価値はないでしょう。

今回の総幹部会において、更に女子部は182区・183区と新設され、一見すると組織が拡大されたかのようですが…
これは、「顕正会が大きくなっている」と会員に思い込ませるための「まやかし」です。
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民主党議員候補者の事務所に顕正会員が突如乱入!

現在、民主党議員候補者の事務所にて、電話かけ等のお手伝いをしている知人から聞いた話です。

それは一昨日の出来事でした。

事務所内で知人を含めスタッフ一同が、忙しく電話かけ等している最中、突如、60代後半の壮年とみられる方が事務所に立ち入り、受付にて何やら、新聞片手に大声で何かを語り始めたそうです。

知人は、その話声の中から、
「日蓮大聖人様」「顕正会」「浅井先生」と聞こえてきたので、その壮年が顕正会員だと確信したそうです。

しかもなんとその顕正会員は、午前と夕方(滞在時間約10分)の二回に亘って乱入してきたそうで、午前中にはお客さん用のソファーに堂々と腰かけ、事務所内でちょっと浮いたような存在の方を捕まえ、30分程度話込んでいたようです。

おまけに、帰り際には、ボランティアで電話かけにきている女性にしつこく連絡先を聞き出そうとしていたとのこと。

このような顕正会員の無骨な振る舞いを耳にする度に、顕正会員であった頃の自分が本当に恥ずかしくなります。

きっとやっている本人は「清々しさで一杯」なのでしょうが。

つくづく残念な人達です

顕正新聞 平成26年12月5日号について(バカ者)

他にも顕正新聞12月5日号紙上において気になる点がいくつかあるので、指摘を入れておきたいと思います。
(もっとも端からツッコんでいるとキリがないので論点を絞ります)
まず、広布御供養の話に絡めて浅井会長は、

「阿部日顕などは、行事・法要にこと寄せては高級料亭で弟子たちと飲食し、時には芸者すら侍らせていたという。」

などと、また賞味期限切れの古いネタを使って、会員にウソを吹聴しています。
いい加減つまらないことを言って会員を騙すのはやめてもらいたいです。

ネタ元の例の「写真」について、情報詳細をwikiより引用します。以下。(尚、文中の『上人』は管理人が加筆しました。)

―――――――――――――――――
日蓮正宗側は創価新報に掲載された2枚の写真について以下の点を重大な疑問があるとし指摘した。

・ 日顕上人の顔が異様に背景から浮き上がっていること
・ ストロボで取られているはずの写真であるが、日顕の右後方にあるべき、ストロボ発光のための影が、全く見えないこと
・ 一枚の写真の中に、ブレとピンボケと鮮明な部分とが混在していること
・ 日顕上人の耳の形が実際と違う(実際は下側が小さい)こと
・ 日顕上人が部屋の中央でなく、部屋の隅に座っているのは不自然であること

また掲載された別の写真についても

・ わざわざ背景が塗りつぶされていること
・ 写真に写っている芸者の襟元に不自然な黒い部分があること
・ハカマの柄が、実際のものと違うこと
・日顕上人のあごの下の影が異様に濃くて不自然

と指摘。その後、日蓮正宗側は掲載されていた写真の鑑定をプロのカメラマンに依頼。鑑定の結果、写真はニセモノ(合成)であることが明らかとなり機関紙『妙観』『慧妙』で日時と場所を明らかにするよう攻勢を開始した。

――――――――――――――――――

詳細はこちらから御覧下さい。

次いで浅井会長は、

「顕正会は飲み食いなどに一銭も使ったことがない。宗門の御会式では、どの末寺でもそのあと必ず酒盛りをする。」

と発言。
おいおいおいおい、少なくともうちの末寺は酒盛りなどしてないぞ!
法要後のお花くずしの後、食事会のようなことはしましたが、酒は飲んでませんよ。
他の末寺もそういう事は聞きません。
それに「顕正会は」と言っていますが、正しくは「浅井一家以外の顕正会員は」でしょう。
御供養=浅井一家の資産なのですから。

そして、お決まりの政治経済への批判については、まず「消費税増税」について触れています。
曰く。

「私は、日本人はなぜ近視眼で目先のことしか考えないのかと思っております。誰だって増税はいやですよ。しかし、このままいけば、国家破産が待っているではないか。そうなったら、国民生活は奈落の底に落ちるのです。格好をつける人は、「借金を残せば、子・孫が苦労する」などというが、そんなに甘いものではない。もう国家破産は眼前なのです。そのことを見ずに、「今増税したら景気が腰折れをする」などと言っているのはバカ者です。(中略)本気で財政再建を考えるなら30%でしょう。」

いやいや、バカ者って。
いきなり消費税を30%なんかにしたら、一気に消費が落ち込んで、企業は軒並み破綻。そうなれば国家破産は眼前どころか、即実現してしまうではないか。
「借金を残せば、子・孫が苦労する」というのは事実なわけで別に格好つけているわけでもないと思います。
ところでなんで、今回の衆議院選に顕正会は立候補者出さなかったのでしょう。
外から批判しているだけではなくて、参加しましょう!政治に!
でなければ「口舌の徒」です。

創価学会の「戒壇の大御本尊様との決別宣言」に伴う顕正会の動向について

「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」(聖教新聞 11月8日号)

先般、11月7日に行われた「総務会」において創価学会は「創価学会会則 教義条項」の変更を議決。
そして同日の「全国総県長会議」の席上、会長原田稔は、今後、学会が自ら「御本尊を認定」するとして、上掲の如く述べた事実は、既に多くの方が聞き及ぶところではないかと思います。

当ブログは顕正会の批判に的を絞っているので、このことについてとやかく書くつもりはありませんが、既にネット上においても大勢の法華講員の方々が鋭い破折を展開するに至っている状況ですね。

当然この創価学会の会則変更を受けて、今後顕正会員においても「今こそ学会員を救わん!」と、会をあげた一気呵成の大規模な勧誘活動が展開されることは想像に難くありません。

浅井会長も常日頃から「八百万学会員を救いたい」と公言している以上、みすみすこの機会を逃すはずがありません。

上記した通り、この会則変更が行われたのは、11月7日。聖教新聞紙上で発表されたのはその翌日のことでした。

対して、顕正会の「総幹部会」が行われたのは、11月の26日。19日間もの期間があったのです。

今回いち早く情報をキャッチした顕正会員さんは、そのことについて浅井会長が一体どういった見解を示すのか非常に気になるところ。
当然「救っていこう!」となるのでしょうが、では一体どのようなツールが用意されるのか?また顕正新聞で特集号を組むのか?
いずれにせよ大本営にて公式見解と活動の具体的な方向性が定まらない限り、会員さん、特に役職が上がるほど下手には動けないはずなのです。

現時点で、水面下でこそこそと練り歩く顕正会員の動きが情報として入ってきておりますが、これらの方々はいわば「フライング」
本来、顕正会の場合、「浅井会長に使って頂く」という強い意識の下に成り立っている組織だけに、会員の早計で自分勝手な行動を極端に慎む傾向にあるといえます。

ですから、11月度総幹部会の席でどのような発表があるのかと、期待していた会員さんも少なくなかったはずなのです。
しかし…
19日間の猶予を経、満を持していよいよと期待が集まった11月度総幹部会において、浅井会長はそのことについてほとんど触れなかったのです。
顕正新聞12月5日号でいえば、短い段落でたったの4行だけ。

「学会は今回、改めて戒壇の大御本尊様を否定するに至った。完全に第六天の魔王にたぶらかされてしまったのです。このこと、詳しくは後日説明いたします。」

これには、私も拍子抜けしてしまいました。

因みに、日蓮正宗において、破折・配布用の大百法号外が発刊されたのが11月21日号。

「負けてはならじ!遅れてはならじ!」といつも修羅っ気ムンムンの浅井会長が、今回の「学会員を救う絶好のチャンス」に当って、すぐに会員に対し掛け声を発しないというのは、非常に異様であり存外なことです。

このレスポンスの悪さです。

あぁ、いよいよ浅井会長もタガが緩んできたな。

と思う次第です。

五万人集まらなかった「顕正会五万男子部大会」

顕正新聞「男子部大会」特集号がきたので、とりあえず第九面に掲載されている全体写真からざっくりと人数を数えてみることにしました。
縦×横でブロック毎の席数を割り出して、全席埋まった計算で、「約一万六千人」。若干写真には写りきれていない箇所を含めたとしても、まぁ二万程度といったところでしょうか。ただし空席がかなりあるので、実際は全然この数には及びませんが…。
第二会場たるコミュニティーアリーナの方は付き添いの人がメインで入っているということで、新聞の六面での掲載写真から、ほとんどが女性であることが確認できます。
その写真の下には、
「第二会場も約一万人が入場、さらにロビーまであふれた。」
と、書かれているものの、その肝心なロビーの写真がどこにも見当たりません。これは大問題だと思います。
本来ならば三万人程の人が収まっているはずの「広大なロビー」の写真を掲載しないはずがありません。
顕正会員は「ロビーにも沢山人がいた!」と言い逃れをしそうなところですが、残念ながら写真が存在しない以上、「ロビーに人がいた」という客観的な証明にはなりませんね。
もっとも「ローマは一日にして成らず」ですから、普段の班長会の結集成果すら伸び悩んでいるどころか、落ちてきているかもしれないのに、ぶっつけ本番で五万の人集めが成功する道理はありません。
それから浅井会長の誓願については、セロリさんが既に言及している様に「5年後の200万は現状維持で達成できる」わけで、「伸び率のキープ、守りの態勢」が今後の会の方針ということですね。
浅井会長自身は、また大きな誓願を打ち出して、他から批判を受けるのがいい加減煩わしくなったのかもしれませんが、正直こちらとしてもそのことについてこれ以上色々考えを巡らすのは非常に煩わしいことです
今後、この大会の大失敗を契機に、大勢の幹部会員が顕正会活動から離れてくれることを期待致します。

冨士大石寺顕正会とは(組織構成)


この記事は【こちら】へ移動しました。

冨士大石寺顕正会とは(続・概略)

それはさておき、次は前記事の最後に記した「曖昧なスタンス」という事についてもう少し掘り下げて説明を加えていきたいと思います。

顕正会は母体である日蓮正宗から破門されたことにより、後の信仰活動上において様々や弊害が生じる事となります。

まず第一に、日蓮正宗時代には当然のように行われていた、総本山富士大石寺への参詣や、富士大石寺の重宝であり、信仰の根本の法体(ほったい)であるところの「本門戒壇大御本尊」を「内拝(ないはい)」する資格を失うこととなります。
日蓮正宗では基本的に、信心の志ある信徒に対しては、この「本門戒壇大御本尊」の下への内拝を強く勧め、促してきました。
その証明として、中興の祖と仰がれる、総本山大石寺第26世「日寛上人」は、
「志あらん者は登山して拝したまへ」
と、仰せられております。「登山」とは大石寺への参詣、「拝したまへ」とは「本門戒壇大御本尊」への内拝のことを指します。

また、各家庭に安置されるべき「御本尊」についても、母体である日蓮正宗から離れてしまっては手に入りません。

大石寺信仰における「御本尊」というのは、日蓮正宗の法主上人唯一人のみが書写し下附(信徒に与えること)する権能を有しており、たとえ碩徳(せきとく)の僧であったとしても、許可なく勝手に書写することは信仰の上から絶対にしてはならないと、厳格に定められているのです。

しかし、顕正会では会員の増加や会館の建設が進むにつれて、どうしてもこの「御本尊」が必要となってきます。
そういった事情に伴い、現在顕正会では秘密裏に、この「御本尊」を自前で作成しておりますが、そういった行為は取りも直さず本来の信条を破ることになりますし、そのことが会員の混乱を招く結果となったり、最悪の場合は脱会者の続出ということも考えられます。そのような事態を防ぐために、会の内部に対してはその事実を隠ぺいし、外部からの指摘に対しては沈黙を決め、しらを切り続けているのです。

それから、故人を供養するために必要不可欠である「戒名」や「塔婆を立てる」ということは、常識の範囲で考えて「僧侶」の特権であることは言うまでもなく一般的概念であるかと思います。
しかし顕正会は、在家信者のみで構成されていますから、本来そういった仏事を執り行うべきはずの「出家・僧侶」は1人もおりません。
ですから、従来の大石寺信仰の中で大事にされ続けてきた「戒名」や「塔婆」は、顕正会では現在、公式に廃止され、それに際してこれらの必要意義についても強引に解釈を曲げて、無理な正当化が図られてしまったのです。

以上、これらがアウトラインとなりますが、更に子細を見れば従来の厳格な信条から完全に逸脱してしまっている点は多数あり、現在に至っては全く日蓮大聖人の意に適わぬ教義が形成されてしまったと言えるでしょう。

こうして傷口を隠すようにして、アレンジにアレンジを重ねた顕正会の独自の信仰形態というのは、会発足の本来の意義を完全に消失するカタチとなってしまっているのです。

会発足の意義とはつまり、

「法主上人を護り、創価学会によって曲げられんとされる日蓮正宗の教義見解の是正を訴える」

というところにあったわけですが、浅井会長が早計にいきり立ち、その勢いで突き進んだ結果が、現在このような本末転倒と言うべき、惨めな体たらくに成り下がってしまったということです。

広島の土砂災害は「諸天の戒め」?顕正新聞9月5日号。

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上の写真は顕正新聞9月5日号の三面。
広島県にて、先日の豪雨により発生した土石流のおぞましい様子の写真が紙面の半分を占めています。
写真の下には、
「この天変地夭こそまさに諸天の戒め。豪雨による土砂崩れで押し流される住宅。土石流の速度は時速144キロにも達したという。」
と、一言添えられています。
しかし、「諸天の戒め」…とはね…。これは非常に不謹慎な表現ですね。
そういえば、過去に東北の大地震は「日本に対する天罰」といって批判を受けた知事さんがいましたよね。
仏法の道理が云々なんていうことは良くわからない世間一般の人々がもしこの記事を目にしたならば、その知事さんの問題発言と、きっと同列の印象を受けることでしょうね。
相変わらずというか、このような品位のカケラもない無慈悲で低俗な内容には、本当に腹立たしい限りです。
一体、被災された方々を何だと思っているのでしょうか。
顕正会活動者である自分達だけ助かればいいとでも思っているのでしょうか!?

と、顕正会員に聞くと、「そういうわけじゃないけど、顕正会員だけが守られるんだよ。だから一生懸命戦っているんじゃないか。」
なんて言ってきそうですが…。

そもそも顕正会とは、「国立戒壇」という名称を使わない事にしたのは「布教の妨げ」になるから、ということの意味が理解できなかったことから派生した新興団体ですから、そういった体質は今でも変わらないという事ですね。
そういう悪い意味では「一貫普遍の精神」といえるかもしれません。

話は変わりますが、先日、ある顕正会員とお話していた際に、その方が、
「見てみなさいよ!今、ドンドン世の中の三災七難が色濃くなってきているでしょう。これは顕正会の戦いが進んでいる証拠です!」
なんて言ってきたので、思わず、
「じゃあ、顕正会員は何もしない方が良いじゃないですか!(笑)顕正会員が頑張れば頑張るほど世の中が悪くなるんじゃぁねぇ~(笑)」
と率直に返答してあげました。
こちらがそう言うと、それきりその方は黙してしまいましたが、きっと依正不二の原理を説明したかったのでしょうね。

しかし、顕正会員というのは、たとえ被災した方に対しても直接、面と向かってそういう事を言い切ってしまうような人達なんですよね。
顕正会員さんは、少し休戦して、頭を冷やして、それから、顕正会に入る前の自分を良く思い出して。
落ち着いて、顕正会を客観視できるような状態になれたならば、その時は是非、私達法華講員、または日蓮正宗の寺院を訪ねてみてほしいと思います。

冨士大石寺顕正会とは(概略)


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【注意勧告】顕正会男子部大会の勧誘活動の激化に伴って

9/7にさいたまスーパーアリーナにて開催予定の男子部大会については、度々、詳細を示してまいりましたが、私の周囲でも「誘われた」等の声が彼方此方であがり始めている事を聞くに及び、再度当ブログにて取り上げておくことに致します。

当ブログにおける過去記事はこちらから閲覧下さい。

とにかく「誘われても行くな!」の一言に尽きます。

「付き合い程度」や、「しつこいから仕方なく」は絶対ダメです。

大会の目的、運営側の意図というのは偏に「参加者の洗脳」にあるわけですから、勿論、大会の構成自体に「洗脳プログラム」が巧妙に仕組まれていることは事実です。
そして洗脳された者の成れの果てが、会員の振舞いに結果として如実に表れております。

過去の事例はこちらから閲覧下さい。

暗い場所、ギュウギュウのすし詰め状態の中で、会長の浅井昭衛さんを讃嘆する言葉を始終聞かされ続けるのは「聴覚や集団心理に訴えかける洗脳システム」です。

その内容といえば、彼の「オ○ム」における、信者を洗脳するためのカリキュラムに酷似している感があります。(○薬こそ使いませんが。)

私は六年間顕正会幹部として活動した経験がありますが、活動にのめり込む契機となったのは「ビデオ放映」と称される、顕正会行事の一環への参加によるものでした。

約2時間に亘り、大きなスクリーンの前に座り、大きな音声で会長の讃嘆を聞かされ続けるわけですが、その時私は仮に全体が2時間の構成であったとして、その中の1時間59分は「寝ておりました。」

そして最後の1分間での出来事でした。大きな音に眼が覚め、スクリーンに映し出された浅井会長の大きな顔を見て、「何か心の底から湧き上がる熱いものを感じ、その一瞬で浅井会長について行く堅い決心をしたのです」
翌日には、顕正会本部会館がある大宮公園駅までの定期券をなけなしの持ち金の中から捻出、購入し、いつの間にか気付いた時には、熱心な活動家になっておりました。

人間の無意識状態と意識状態の中間である「シータ状態」にされる事によって、ある特定の観念を心中に植え付けるという脳科学に裏打ちされた洗脳法が用いられているのかもしれません。(そこら辺の話はあまり詳しい方ではありませんが…)

今回の大会に誘われている方、若しくは行く予定になっている方は、参加自体に「危機意識」をもって下さい。

結果、大会に人が集まらなければ(名目では五万人結集を称しています)、その会の現状を事実の上に突き付けられた現役の会員さん達も、それによって目が覚めて、結果、洗脳の死地から救い出すことができるかもしれません。

彼らを排斥し、孤独にしていく事こそが、彼らへにとっての良きカンフル剤であるということなのです。

顕正会男子五万人大会について

平成26年9月7日に開催を予定している「顕正会男子部5万人大会」まで、ついに1ヶ月を切りました。
結集の戦いもラストスパートに突入した今、班長以上の中堅幹部会員はこぞって人集めに奔走していることでしょう。
世間ではお盆休み、上京している学生の顕正会員さんは地元に帰省して、同級生宅などを片っ端から訪問折伏(アポなしの飛び込み勧誘)、する絶好の機会です。また社会人の顕正会員さんにも同じ事が言えると思いますが、大会前最後の大型連休ですから、結集ノルマ達成へ向けたラストチャンス、正念場になることかと思います。

顕正会の活動者実数はたかが知れているとはいえども、会員の総力をあげて声掛けが行われるわけですから、これから一ヶ月の間は「顕正会男子五万人大会」というワードが全国至るところで飛び交う事になるでしょう。

大会の参加を促された未入信の方や、顕正会の活動に対し消極的な会員さんは、一体どの様な大会なのか、ネットで調べてみるかもしれません。

そこで、セロリさんブログにおける過去の記事を参考に、改めてその大会について記事にまとめてみたいと思います。

【会場であるさいたまスーパーアリーナでは五万人の収容は不可】

さいたまスーパーアリーナの会場の使い方についてはスタジアムモードというメインアリーナとコミュニティーアリーナを一つにして使用する方法と、2つを分けて使用する方法とあるそうです。
顕正新聞2月5日号に掲載された浅井会長の発表によると、どうやら二つに分けた形で使用する様です。
具体的には

・メインアリーナ(メイン会場と発言)
・(隣接する五千席の)コミュニティアリーナ
・展示ホール(別棟大ホールと発言)
・ロビー(メイン会場の一階から五階の広大なロビーと発言)

浅井会長は「これで五万収容は充分」だと述べています。

しかし、会場ごとの最大収容人数の詳細を見てみましょう。
まず、メインアリーナでは必然的に『エンドステージ2』のレイアウトで使用することとなりますので、まず、そこでの収容人数は「約1万6千席。」

そして、コミュニティアリーナは会長自身が5千席と発表しておりますので、合わせると「2万1千席」。
壇上や舞台袖をフルに使ってもせいぜい、「2万3千席」ということが推測されます。

更に、展示ホールについては、HPに収容人数の記載はありませんが、セロリさんが専有面積から割り出した計算によると、1千人の収容がやっととのことです。

最後にロビーに関しては、いくら「広大」とはいえロビーはロビーですから、メインアリーナ、コミュニティアリーナ、展示ホールを合わせた数よりも多い人数を収容できるとは常識的に考えても到底思えません。

要するに、顕正会の公式発表による会場の使用方法によれば、最大収容人数はたかが「2万4千人弱」という事になり、はなから五万人を結集する気などさらさらないという事がお解り頂けるかと思います。

【結集成果の水増しは顕正会の十八番】

昭和49年7月28日、妙信講(顕正会の前身)は、明治公園(東京・千駄ヶ谷)において『立正安国野外大集会』と称し、「3千名」を結集したと発表しました。大会の後、「政治のために仏法を曲げるな」「謗法与同を許すな」「国立戒壇こそ大聖人の御遺命」等のプラカードを持って、四谷駅まで2キロをデモ行進したそうです。
しかし、
警視庁の調べなどによれば実際の人数は「千百名程度」であったとのこと。

また近年でいえば、平成21年8月開催の「男子三万人結集大会」で使用された、長野市のエムウェーブという会場の最大収容人数は「2万人」。この人数制限を超えれば消防法違反となってしまいます。
当時私は顕正会員としてバリバリ活動しておりましたので、実際に現場にて会場での様子をこの目で確認しておりますが、大会の開始当初は空席だらけの状況、最終的に埋まらなかった後方席の椅子は片付けられてしまいました。
ですから実際の結集成果は「二万人前後」を推定されるにも関わらず、顕正会では堂々と「三万」と発表されております。

今回に大会においても恐らく、一万六千人収容のメインアリーナが一杯になったところの写真を顕正新聞の一面記事に掲載して、「沢山集まった様にみせかける」ことが狙いではないかと思います。
スタジアムモードの「エンドステージ1」というレイアウトで大会を行えば、メイン会場だけで「三万人」の収容が可能であるにも関わらず、わざわざ会場を小さくして使用するということは、実際は「三万人」の結集すら危ういと踏んでのことでしょう。
空席が目立つようでは「絵」になりませんからね。

【結集成果は増すどころか、実際は下降の傾向にあるのではないか】

過去に当ブログにおいて記事にしたことがありますが、顕正会で毎月行われる「班長会」の結集人数を見れば、能動的な活動家会員の実数はおおよそ見当がつきます。

H25/7月度男子部班長会…6086名

H26/2月度男子部班長会…5904名

大きな大会を眼前に結集状況がこの有様では、顕正会の人材枯渇は必至なものと窺えます。

【勇気をもって断ろう!】

「五万人も集まるんだよ凄いでしょう!」「こんな凄い大会があるのは初めてだよ!絶対予定空けておいてね!」顕正会員は様々な理由をつけては、大会の参加を促してくるはずです。
しかし、
このような数を偽った、くだらぬ大会に自身の大切な時間を割いて付き合う必要は全くありません。

【幹部会員は気が付いて下さい!】

「小手先の小細工」で、成果を誤魔化して、会員や世間を騙して、それでも顕正会は正しいと本当に言えるのでしょうか?きっと大聖人様は御照覧ですよ。

※もし、大会後に顕正会員の中で「五万人が確かに集まった」という信憑性のある資料を明示できる方がいらっしゃったら教えて頂きたいと思います。本当に五万人集まったということが実証され、それが客観的な視点からみても間違いない事実であったならば、即刻このような記事は削除致します。

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樋田昌志さんが浅井会長へ三度目の公開詰問状

セロリさんのブログに掲載された法華講員樋田昌志さんの浅井会長へ向けた三度目の公開詰問状を転載致します。
仏法の事をしっかりと学ぶ機会のない顕正会員さん達にとってはこの内容は大変難解だと思われますが、自宗の教義が論破されているのだから、会員さん達は最低限、文章の表面上の意味合いだけでも理解できるように研鑽(けんさん)するなど、仏弟子としての然るべき努力があっても良いと思います。
きっと今回も浅井会長は「見なかったふり、聞かなかったふり」をするのでしょうから、結局会員さん達が頑張って対応するしかないのですよ。
いつか浅井会長は「大聖人の弟子という面目にかけて」なんて仰っていましたが、以下会員さんは師匠と仰ぐ会長に御心に同心して、面目とやらをキチンと示してもらいたいものですね。
無反応というのは卑怯千万です。
以下。

―――――――――――――――――――――

顕正会会長(※登記上は次男城衛氏に代表役員職を譲ったが、未だ実質的な会長) 浅井昭衛殿 
    
         日蓮正宗法華講員 樋田昌志
貴殿に対し三度目の破折・諫暁として一文を送付し、公開対論もしくは公開文書対論を要望する。
一、僧宝に対して貴殿の大謗法行為を呵責する。
貴殿の信仰姿勢は以下の御文・御指南に悉く反する故に大謗法である。
■ 凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり(真言見聞 文永九年七月 五一歳 608)
御法主上人をはじめとして日蓮正宗の「御僧侶を謗る」貴殿ら顕正会は大謗法である。特に御法主上人の御内証、血脈相承の当所は「三宝一体」であり、御法主上人を謗ることはそのまま仏宝・法宝を謗ることになる。これ大謗法にあらずして何であろう。
■ 次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。(中略)大集経に云はく「五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を滅(めっ)せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。(中略)末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳 269)
 大聖人様の「仏宝・法宝」は必ず「僧」に依りて相伝・伝持され末法尽未来際まで久住するのである。
この意義は別して、戒壇の大御本尊の御内証は唯授一人・血脈相承により、尽未来際まで代々の御法主上人により相伝・伝持されていくのであり、その証左として御法主上人はこの世で唯一御本尊の書写を為される御方なのである。
貴殿には相伝もなく、もちろん御本尊を書写できる筈もない立場のくせに、御法主上人をはじめ宗門御僧侶を誹謗している。
が故に破門され、顕正会には尊仰すべき血脈正統なる「僧」がいない。
であるから顕正会には「仏宝」も「法宝」も存在しない。
つまり貴殿らは仏法僧の三宝が存在しない邪道を夢中に行じているだけである。
そんな貴殿らがどれほど会員を勧誘してもそれは絶対に正当な「広宣流布」とはならない。百害あって一利なしである。
 貴殿らは末法の唯一正統の下種仏法を伝持されている御法主上人を悪罵し謗っている。まさに大集経の御文の如く「仏法の大灯明」を滅ぼさんとする大魔族の輩である。
 仏法僧の三宝の恩を報じていくことが成仏の道であるのに、貴殿らはその中でも、特に「僧」の恩を報じていない。
「僧」こそが「仏」と「法」を正統に伝持しているのである。「僧」の恩を報じていないということは、つまりは「仏」と「法」の恩をも報じていないことである。
結局「三宝」の恩を報じていないことになり、成仏など思いの外、三悪道に堕ちる大逆罪の集団である。
■ 華厳経に云はく「恩を知らざる者は多く横死(おうし)に遭(あ)ふ」(四条金吾釈迦仏供養事 建治二年七月一五日 五五歳 994)
三宝の恩を報じていない貴殿らは多く横死(殺害されたり、災禍などのため、天命を全うしないで死ぬこと。不慮の死。非業の死。)に遭うであろう。御金言は絶対である。
これは顕正会内に不慮の災難死・事故死・自殺・若くしての病死などが多くないか、よくよく会員内の厳証を確認してみるべきであろう。
顕正会内外で誰もが貴殿の後継者と目されていた長男克衛氏が顕正会の活動の最前線から姿を消した。
これなども「恩を知らざる者は多く横死(おうし)に遭(あ)ふ」との御指南と関連しているのではないかと危惧されるところである。
■ だんな(檀那)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。(四條金吾殿御返事 建治三年四月 五六歳 1118)
「檀那」とは在家信徒であることは論を待たない。では「師」とは檀那とは別の「師」であるから当然「御僧侶」ということになる。(間違ってもただの俗人である貴殿ではない。)
御法主上人をはじめとして日蓮正宗の御僧侶を完全否定している貴殿らの祈りは全く叶わない。ということである。
貴殿が掲げる「何年までには顕正会員何万人!」との目標が悉く達成できず、数値目標がいつの間にか下方修正されているのも、まさに貴殿の祈りが叶わない証拠ではないか。
■ 在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。(松野殿御返事 建治二年一二月九日 五五歳 1051)
御僧侶を供養していない貴殿らは、例え南無妙法蓮華経と唱えても、全く大聖人様の御心に叶っていないが故に功徳なし。のみならず、大謗法の果報で貧・病・争などの厳罰が多発しているのが現状。
■ 皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。(新池御書 弘安三年二月 五九歳 1457)
 
貴殿も元は日蓮正宗に所属する妙信講員であり、その時は一分の信行があったであろうが、徐々に純粋な信心を失い、今はまさに御法主上人を誹謗し御僧侶を恭敬せず、供養もなさず、自らを慢じて邪見・悪見・愚見・痴見を連発している。
この大謗法の果報で今生では災いが重畳し、後生には無間地獄必定である。
これ実に恐るべきことである。命終の後、無間地獄に堕ちた時に後悔しても最早手遅れである。
■ 末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるが(忽)せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。(新池御書 弘安三年二月 五九歳 1461)
これまさに貴殿の邪態を指弾された御文ではないか。
正統な法門を伝持相伝される立場でもない俗人の浅はかな頭のくせに、法門を少しばかり読み散らかし、全てを知った気になって増上慢となり、あろうことか大聖人様以来の深秘の法門を唯授一人・血脈相承されている日達上人を誹謗し悪罵する。
その結果、戒壇の大御本尊への参詣の道も断たれた無様な姿を「遥拝勤行」などという誑惑で会員を謀り、更には正統な本尊に困り結果ニセ本尊を乱発するに至る。なんと惨めな醜態か。
真の信仰の道を進んでいるという証拠というのは、御法主上人をはじめ日蓮正宗の御僧侶を敬い、現に戒壇の大御本尊様の御前に詣でて信心の誠を尽くすことである。
どんな邪説を百万言並べても、全てこの御文によって木端微塵に打ち砕かれているのである。
貴殿も死期がそう遠くないであろうから、今ここで深く反省懺悔すべきである。
■ 後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。(新池御書 弘安三年二月 五九歳 1461)
貴殿は無間地獄は必定である。しかし真にそれを畏れ免れたいと願うならば、まず下らん名聞名利を捨て、全ての顕正会員の前で自らの非を詫び、現時において唯一「法華経を説く=御本尊書写ができる」御法主上人をまさに生身の大聖人様と拝すべきである。
相伝・相承のないただの俗人の貴殿などが日蓮正宗に背いてできることといえば、せいぜいニセ本尊を印刷する大謗法行為ぐらいであり、どう背伸びしても御本尊を書写できる御立場の御法主上人とは天地雲泥の差なのである。そんな者が何を小賢しく喚いてみても犬・野干が吠えるがごときである。
会員に自分に対して「伏せ拝」などさせて悦に入っているどころではない。
自分が御法主上人の御前で額ずき大謗法の前非をひたすら悔いて詫びることが貴殿に残された唯一の救われる道である。
■ 止観に云はく「師に値(あ)はざれば、邪慧(じゃえ)日に増し生死月に甚だしく、稠林(ちゅうりん)に曲木を曳(
ひ)くが如く、出づる期有ること無し」云云。凡そ世間の沙汰(さた)、尚(なお)以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧(むし)ろ輙(たやす)く自己を本分とせんや。(蓮盛抄 建長七年三四歳 29)
御法主上人を師と仰がない貴殿は、日に日に邪な智恵を増し、生老病死の迷い苦しみは月々に重畳し、我慢偏執の隘路に迷い込み決してそこから脱出することはできない。仏法の師を離れて即身成仏という大難事を己が浅智浅見で叶うはずがないのである。よくよく肝に銘ぜよ。
■但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。(百六箇抄 弘安三年一月一一日 五九歳 1702)
唯授一人・血脈相承の御法主上人に対して「異論」を差し挟んで「総貫主」と仰げない貴殿はこの御指南に背く大謗法である。
もし当該文を「後加文」ということで言い逃れをするようであるならば以下の御指南をよく拝せ。
【関連】●第六十五世 日淳上人全集
百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです

■ 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595)
貴殿が無智な顕正会員を誑惑している御文であるが、ここに■「有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」とある。広宣流布が達成すべき時の条件を明確に示されている。
つまり、浄心に信行に励む有力在家信徒が、唯一正法を持つ御僧侶(時の御法主上人)を不自惜身命で御護りする、その確たる僧俗一致の体制が現出することが広宣流布が達成するための必須条件である。
貴殿はその唯一正法を持つ(=御本尊を書写できる)御僧侶(=御法主上人)を誹謗している。
そんな不浄不潔の不信心な輩など広宣流布を担う資格など毛筋ほどもない。この御文を百万回読んでよくよく我が身の大謗法を知れ。
■ 師弟相違せばなに事も成すべからず(華果成就御書 弘安元年四月 五七歳 1225)
現時における仏法の手続ぎの師である御法主上人を誹謗する貴殿は、何をどうあがいても何事も成就しない。
貴殿の長男克衛氏が顕正会の跡継ぎを失職したのもその厳証であろう。
顕正会の未来が実に暗澹たることを貴殿も心底では感じ嘆息していることであろう。
■ 比丘(びく)の信行は俗の修学に勝る。又比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学解行(げぎょう)は信行の比丘の始信に同ず。
俗は能く悪を忍ぶの義有りと雖(いえど)も受職の義なし。故に修学解了の受職の比丘は仏位に同じ。是即ち如来の使ひなればなり。(得受職人功徳法門抄 文永九年四月一五日 五一歳 589)
僧俗の信行の上での立場・境界の違いを明確に御指南された御文である。
俗人の貴殿などが何をどう学ぼうが日達上人には及びもつかない。
深秘中の深秘の三大秘法の御法門は唯授一人の御法主上人のみが知悉しているのである。
それを薄っぺらな法門怪釈しかできないただの印刷屋の息子の分際で日達上人を誹謗するなどもっての他の大慢心の者、大謗法である。
■ 作法の受職灌頂の比丘をば、信行の比丘と俗衆と共に礼拝を致し供養し恭敬(くぎょう)せん事、仏を敬ふが如くすべし。(同 590)
これまさに御法主上人に対する信行の在り方を御指南された御文ではないか。
御法主上人をまさに大聖人様を拝するがごとく敬まうべきである。
御法主上人を誹謗する貴殿はまさに天魔の付きたる大悪人である。
■ 我が弟子等の中にも「未得謂得未証謂証(みとくいとくみしょういしょう)」の輩(やから)有って、出仮利生(しゅつけりしょう)の僧を軽毀(きょうき)せん。此の人の罪報具(つぶさ)に聞くべし。今時の念仏・真言・律等の大慢謗法・一闡提(いっせんだい)等より勝れたること百千万倍ならん。(同 594)
これまさに貴殿のこと。浅薄な教学しかないのに慢心を起こして思いあがって御法主上人を誹謗する。
貴殿の罪は、一般の邪宗邪義謗法の輩の百×千×万倍もの重きものである。これで無間地獄に堕ちない訳がない。よくよく覚悟して行け。
●「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(『御本尊七箇之相承』聖典三七九)
御歴代御法主上人は悉く(※血脈相承の当処、三宝一体の御内証において)日蓮大聖人である。との御指南である。
貴殿はその「御内証、三宝一体の日蓮」のお立場であられる日達上人・日顕上人・日如上人に対して誹謗中傷・悪口雑言を吐いている。
これまさに極悪の大謗法である。
● 師弟の道を破って唱ふる題目は失のみ来て功徳はあるべからざるなり、(第三十一世日因上人【穆作抄】富要二巻二五八)
御法主上人を誹謗してどう勤行唱題しても罰だらけで功徳はない。克衛氏の末路がその厳証か。
 
● 私の檀那の筋目之を糺すべき事、此は師檀の因縁を示す、檀那は是俗の弟子なり、故に師弟血脈相続なくしては即身成仏に非す、況や我が師匠に違背せるの檀那は必定堕獄なり乖背は即不信謗法の故なり。(有師物語聴聞抄佳跡上 第三十一世日因上人 1-247)
御法主上人に違背している貴殿ら顕正会は無間地獄必定である。
 
● 仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず(中略)
師は弟子をして先仏の法を未来に久住せしめ・弟子は師に依りて過去遠々の法を一時に受得す、(中略)
弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十方の通軌(中略)師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、(中略)
師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ(中略)
信の手続きに依りて師弟不二の妙理を顕はし・能所一体の妙義を証するを以つて本仏所証の妙法蓮華の色心は即所化の弟子の色心となるが故に・生仏一如師弟不二の即身成仏の域に達する事を得、是れ蓋し信の手続によりて生する所のものなり。(第五十九世 日亨上人 有師化儀抄註解 1-124)
即身成仏するためには、必ず御法主上人を尊仰し奉り、日蓮正宗末寺に所属し御住職を尊信しなければ絶対に叶わない。貴殿ら顕正会員は絶対に即身成仏できない。
三悪道に堕ちるのみである。その首魁である貴殿は地獄の最低最下の無間地獄に突き刺さり永劫に熱の業火に焼かれ続けるのである。
● 仏法において正法が混乱しないように相承の道を立てて明かにされているのであります。それでこの相承の跡を尋ねていけば正しい仏法か、間違った仏法かを知ることができるのであります。(第六十五世 日淳上人 日淳上人全集)
相承のない貴殿と、血脈相承明白な日達上人とどちらが正しいのか。子供でも分かる理屈である。
ただの印刷屋の息子である貴殿の主張が悉く間違っているのである。その悪義・謗説を吹聴して多くの顕正会員を惑わしている罪は誠に甚重である。
● 元来法華経と云うお経の骨子は何処にあるかと申しますると、師匠と弟子と云う関係に於て仏法を説かれて居るのでございます。つまり師弟の関係を如何に心得如何にこれを行うかと云う事が法華経の教の骨子をなして居ります。(中略)
 日有上人様は我が宗門の信仰は師弟相対して信を取る処に要があるぞと、仰せ遊ばされているのでございます。で、師の命令に対しては弟子が恐々としてこれを行うんだ、我が身を顧みずこれを行うと言ふ所に信心の要があると云う事を仰せ遊ばされておるのでございまする。(第六十五世 日淳上人 日淳上人全集 183)
貴殿は、釈尊もまた日蓮大聖人様も定められた信行の基本が全くできていなかったのである。
御法主上人の仰せに身を正して信順してこそ大聖人様の御心に通じるのである。その真逆を行く貴殿は救いようのない一闡提人である。
さて貴殿は自己正当化のための文証として
● 時の貫首(かんず)たりと雖も仏法に相違して己義を構(かま)へば之を用ふべからざる事。(日興遺誡置文 元弘三年一月一三日 1885)
との一文を引用している。
だがこの文の「之を用ふべからざる事」の「之」とは、万万が一にも生じた「己義」に対してであり、決して「時の貫主」ではない。
なぜならばもし、この「之」を「時の貫主」と解釈すると他のあらゆる御文と整合性が取れなくなるからである。
そのほんの一端を例示しよう。
例証
 ■ 大集経に云はく「五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を滅(めっ)せんと思へ」と説かれたり。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳 269)
末法の沙門(僧)の代表である御法主上人を「失あり」と糾弾し排斥したならば、それは仏宝・僧宝を伝持する仏法の大灯明を失うこととなり、結果仏法そのものを失うこととる。そういう破仏法行為は絶対に不可なのである。
 ■ 上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。(百六箇抄 弘安三年一月一一日 五九歳 1702)
末法万年に亘って、御歴代御法主上人を日蓮大聖人の如く尊信し、総貫首として尊仰していきなさい。との御指南である。
間違ってもその御法主上人に背反し排斥してはいけないのである。
であるから、●「時の貫首(かんず)たりと雖も仏法に相違して己義を構(かま)へば之を用ふべからざる事。」の意義は、その時代時代の様々で複雑な状況下において御法主上人が万万が一、誰が見ても明らかな「己義」と拝される言を発せられた時、その「言」を用いない。ということである。
貴殿が日達上人をはじめ日顕上人・日如上人へ対して誹謗し悪口していることを正当化できる御指南では断じてない。
よくよく肝に銘じるべきである。
二、顕正会が所持する「導師曼荼羅」について
貴殿の言
▼「このときさらに松本尊能化は、『葬儀のときに困るでしょう』とおっしゃって、日布上人御書写の『大日蓮華山大石寺』の脇書がある導師曼陀羅の御形木御本尊まで、六幅授与して下さったのであります」(『顕正新聞』平成19年10月5日号)
導師曼荼羅は、各末寺の御住職が総本山へ申請し、御法主上人が直筆で一幅ごとに書写され御住職へ授与される御本尊である。
そこには必ず、申請された末寺の寺院名と申請者である御住職の名が授与書きに銘記されている。
つまり同一の複写である「形木の導師曼荼羅」など日蓮正宗には存在しない。
ということは顕正会所持の「六体の形木導師曼荼羅」とは、解散処分後に御法主上人の允可も無く貴殿が勝手に印刷させた大謗法の「ニセ曼荼羅」ということである。
こんな極悪大謗法曼荼羅で死骨成仏・非情成仏の重大事が成就できる訳がない。
もしそれが「本物である」と主張するのならば速やかに日蓮正宗宗門に確認しその証拠を挙げて証明してみせよ。
その証明が為されない限り、当方はひたすら顕正会の導師曼荼羅はニセ本尊である旨を世に喧伝する。(もちろん既に詰問してしているが貴殿から何の証明も為されていない「大幅日布上人形木本尊」とやらについても同様である)
貴殿もかなりの高齢なのだからまだ存命中に自身の信仰上の責任として顕正会所持の本尊の真性を明白に証拠を挙げて内外に証明すべきであろう。
もしそれが出来ないのなら潔く前非を悔いて顕正会員全員を引き連れ、御法主日如上人の御前にて額ずき、大懺悔して顕正会を解散し、心からの謝罪をすべきである。
そうせずしてこのまま死期を迎えたならば、未来永劫に悔いを残すことになるであろう。貴殿に残された唯一最後の救われる道である。
以上の破折・詰問についての明晰な反駁があるならばその反論期限は平成26年8月15日とする。
貴殿の勇気ある潔い対応を心より期待する。
平成  年 月 日

浅井会長が日曜勤行の講義の時に持っている本は日蓮正宗の御書全集です。


日曜勤行等で浅井会長が持っている本、顕正会時代には大変気になっていたのですが、どのような本なのか当時は知る由もなく、また先輩にも恐れ多いような気がしてしまって、敢えてその事は質問せずにおりました。

あの本の正体は『新編御書』。つまり、日蓮正宗の『御書全集』なんですね。

20140713011810.jpg

そして上の画像は顕正新聞、平成25年2月15日号。
この顕正新聞の一面で、浅井会長が毎度の如く、新編御書の分冊版を持って、日興上人の『原殿御返事』を講義しています。
しかし、実はこの平成新編に『原殿御返事』は所載されていません。

この顕正新聞の記事は、日興上人御報恩勤行会で浅井会長が『原殿御返事』を講義したものでありますが、つまり写真と記事が整合していないという事です。

全く、お粗末な話ですね。

(慧妙、平成25年4月1日号参照)

浅井会長「当らぬ予言」 仏の御意に適わぬ振舞

私のヤフーブログに良くコメントして下さる真田亮さんから今回この様なコメントを頂きました。

――――――――――――――――――――――

昨日、顕正会員から面白いコメントがきました。
>>[130] はっちゃんさん
ごめん。コメントを消してしまった。コメント再度載せる。
だんだん、客観情勢は、浅井先生のおっしゃる通りに、なっとるばいm(_ _)m先生は、仏法の鏡に照らして、指導をされてる。
だから、先生がいわれた事が、時期がずれても、必ず起こる。
完璧に事態が起こる時期を当てるのは、出来なくて当たり前。
予言者ぶってると騒ぎたければ、好きなだけ騒いだらいい。
歌については、自分はわからない。ただ、そこについては、深く考える必要は、ないだろう。

--------------------------------------------

「客観情勢は浅井先生の仰せの通りになってきている」

そしてその後の、
「先生は仏法の鏡に照らして指導している」

実はこの二つの主張が矛盾していることに顕正会員さんは気が付かなければいけません。

このコメントの内容というのは一顕正会員が真田亮さんに対して、つまり他宗の人に対して言っているわけですから、当然顕正会員さんの側からすれば「折伏」の意義を含むやり取りであった事に違いありません。

その事を念頭においた上で下記の御金言を拝してみて下さい。

『小蒙古の人大日本国に寄せ来たるの事
 我が門弟並びに檀那の中に、若しは他人に向かひ、将又(はたまた)自ら言語に及ぶべからず。若し此の旨に違背せばを離すべき等の由(よし)存知する所なり。此の旨を以て人々に示すべく候なり』(小蒙古御書)

これは、二度目の蒙古の攻めがあった当時、大聖人様が著された御書です。

「つまり、今は国家の一大事である。我が門弟および信徒は、他人に対してはもちろんのこと、私語のなかにもけっして予言の的中を誇るようなことはあってはならない。今は予言の的中をうんぬんすべき時ではなく、一国をあげて国難に対処すべき時である。もし、これに違背する者があれば、即刻破門にするむねを厳しく勧告されているのです。」(日蓮大聖人正伝参照)

きっと顕正会員さんは浅井会長の予言が的中したならば「ほら、顕正会は正しいだろう!」と言って回るに違いありません。

家庭もかえりみず我が身投げ打って折伏に飛び回るに違いありません。

しかし違うのです。

仏法の指導者であれば、その様なことを会員に促すという事は大聖人様の御意に反した行為となるのです。

『「一切世間の治生産業(じしょうさんごう)は皆実相と相違背せず」とは此なり』(壇越某御返事)

難に対処する事が最優先であり、またそのようなことは他ならぬ仏法の実践であるということではないでしょうか。

東日本大震災の時、どうだったでしょう。

浅井会長は東北の顕正会館に食料を届け、結果、会員からは称揚されましたが、一方で世間に対しての善行は何かありましたでしょうか?
10億円の遺産相続金がありながら、実際はその溢れんばかりの金銭のほんの一握りを会員に分け与えただけなのです。

因みに日蓮正宗では、毎年のお経日には震災で亡くなった方の塔婆を立てて供養します。

それから、9・11の折には、日顕上人は現地に赴かれ、追悼法要を執り行われました。
大聖人様の御意に適った、宗教者として当然のお振舞なのです。

仏法を極端に曲げて捉え、仏智に適わぬ振舞をすれば、世間との溝はいよいよ深くなりますし、布教に障りが生じることになるのです。

まずはどうか顕正会員さんには、人間の心を取り戻して頂きたいと願います。

浅井会長「当たらぬ予言」 外れた責任の転嫁術


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上の写真は6月5日号の顕正新聞に掲載された活動報告ですが、この登壇の一部分から浅井会長の当らぬ予言が会員さん達の中で正当化されてしまう「からくり」を窺い知ることができると思います。

つまり具体的に、

――――――――――――――――――――

さらに「顕正会の浅井会長は『地震だ』『疫病だ』『戦争だ』と不安を煽っている」等と、許し難い批判をしてきたので、私が、「浅井先生は大聖人様の立正安国論の仰せを根本に指導しておられる、では尋ねるが、大聖人様の立正安国論の仰せも社
会の不安を煽っているとでもいうのか」

----------------------------------------

と、この部分です。
登壇内容の主旨は、顕正会員と創価学会員との問答ですが、この登壇者の発言が顕正会の精神を如実に表していると思います。

そして以下の写真は、「日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ」と冠した「諫暁書」の冒頭です。

20140615041835.jpg

「これは凡夫の私が言うのではない」

つまり、浅井会長は「自身の個人的な私見でモノを言っているのではない」ということを言いたいのでしょう。

また浅井会長は、
『「もし大聖人ここにましませば、何を命じ給うか」と。この御命令を信心の耳で聞き奉り、御奉公を貫いて来た。これが顕正会の行動原理です。』 (顕正新聞H25年8月15日号)

と、こちらの発言も、まるで会長自身はただの中間媒体であり、大聖人様の代弁者であるかの如くです。

会員の目線から、浅井会長の仏法上の立ち位置がこの様な形で確立したならば、予言の当る、当らぬは会員にとって、もはやどうでも良いことになってしまいます。
間違いがあってもその責任は全て大聖人様に責任転嫁される、この様なシステムによって浅井会長は何を言っても許されるのです。
「私が言ったのではない、大聖人様が仰せなのだ」と、こういった責任逃れをするための会長の策謀が会員の信仰の理念の中に巧みに練り込まされてしまっているのでしょう。

凡夫は間違える事があっても、仏様が間違うはずがなく、過去と現在の発言に相違があったとしても、それは「方便」であったということで済まされてしまいます。

予言が当たらない事を会員に指摘すると揚げ足取りをされているようにしか感じないのは「能」「所」の筋目を弁えない大増上慢の浅井会長から長く洗脳され続けた結果、曲がりに曲がった信条が根付いてしまったゆえであると思います。

浅井会長「当たらぬ予言」 近年の安倍政権への予言集


「やがて制御の利かない悪性インフレが始まり、(中略)あっという間に国家破産が現実になるのです。(中略)そのとき、政治家は誰も責任をとらない。安倍晋三さんも」 (顕正新聞平成25年2月5日号)

「安倍首相はいまTPPとアベノミクスを原発推進にのめり込んでいる。だが、必ずこれが裏目となるから、よく見ててごらんなさい。」 (顕正新聞 平成25年4月5日号)

「安倍首相はいま「アベノミクス」「TPP」「原発推進」等の政策を打ち出している。だが必ず裏目となる。これが日本の破滅の入り口になるから、みていてごらんなさい。」 (顕正新聞 平成25年5月5日号)
「阿部政権のロケットスタートは必ず「始め良し、後で大罰」となる。(中略)アベノミクスはやがて国債暴落とハイパーインフレを招いて、国民を奈落の底に突き落とす。」 (顕正新聞 平成25年6月5日号)

「安倍内閣のロケットスタートは、まもなくロケット落としになる。まさに「始め良し、後で大罰」の真言亡国そのままの姿を現ずるから、よーく見ていてほしい。」 (顕正新聞 平成25年7月5日号)

「阿部政権の経済対策、いわゆるアベノミクスなるものは、かえって国家破産を早めつつあるではないか。(中略)こんな無謀な事が続くわけがない。やがて国債は暴落して国家破産が事実となる。そしてハイパーインフレによって国民は塗炭の苦しみを味わうのであります。」 (顕正新聞 平成25年8月5日号)

「無謀なアベノミクスは必ず国家破産とハイパーインフレをもたらす。そのとき国民は生活に苦しみ食料も手に入らなくなる。これまさしく穀貴に当る。日本国民は騙されて、まだ気がつかない」 (顕正新聞 平成25年9月5日号)

「安倍首相は就任一年、順風満帆のロケットスタートに心驕って判断を誤ったのであろう。これが安倍政権崩壊の始まりになることは疑いない。」 (顕正新聞 平成26年1月5日号)

「国民を幻惑してきたアベノミクスも、まもなく馬脚を現すに違いない。(中略)このアベノミクスのまやかしに、間もなく全国民が気付く。そのときが阿部政権の「ザ・エンド」であります。」 (顕正新聞 平成26年2月5日号)

「すべては昨年末の靖国参拝に端を発している。まさにこれが安倍政権のターニングポイントであった。そしてこれが終わりの始まりなのであります。」 (平成26年 3月5日号)

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近年の浅井会長の安倍政権に対する批判・予言を列挙してみました。

安倍政権が一昨年の12月の発足して以降、浅井会長は総幹部会の度に安倍政権の崩壊を「必ず」や「疑いない」と断定的に予言し続けました。

それが、平成25年8月度総幹部会まで続きますが、その後は創価学会へ批判が中心となり、一時安倍政権への批判が止みます。

そして、本年、平成26年に入ると、また元の路線に軌道修正して、安倍政権の断定的な批判を始めます。ところが最近では言い回しが断定的ではなくなってきているのです。

だんだん自身の過去の発言に、自信がなくなってきてしまったのでしょうか?

しかし講演の一部始終が国際情勢や政治の話で埋め尽くされており、最近はその傾向は顕著になってきております。
いくら有識者の論を借りたところで、用いるのは会長その人、所詮は個人の所感でしかありません。

もはや、宗教者としてはあるまじき講演内容であり、信仰の団体とは到底思えませんね。

顕正会員さんは「予言」ではなく「お励まし」と言うのでしょうが、
予言とは
「未来の出来事や未知の事柄をあらかじめいうこと。また,その言葉。」(大辞林)
との意です。

「時に当たりて我が為国の為大事なる事を、少しも勘(かんが)へたが(違)へざるが智者にては候なり」(蒙古使御書)

との大聖人様の仰せを拝するに、大事なる事を違いまくる浅井会長が智者である道理はなく、反対に「愚者」であり、そのような人は「邪師」といわなければなりません。
続く。

浅井会長「当たらぬ予言」の意図

「第三次世界大戦の序幕はすでにはじまっている」(昭和42年)
「恐るべき自他の二難は刻々と近付き」(昭和44年)
「全世界に暗雲たち込め、まさに前代未聞の大闘諍(だいとうじょう)の兆しすらみゆる」(昭和46年)
「天はすでに警鐘を乱打」(昭和46年)
「世界的基金も招かんとしております」(昭和47年)
「次は飢渇(けかち)が来る、日本の経済は必ず崩壊する」(昭和48年)
「次に迫り来る恐るべきものは飢饉であること間違いない。来てはならないと思うが数年以内には起こらんとしている。早ければ来年にも始まる」(昭和49年)
「大飢饉、早ければ来年から、遅くとも七十年代のうちには世界的な規模で、ことに日本において強く現れる」(昭和49年)
「八十年代こそ恐らくは世界大動乱の時代となる」(昭和49年)
「ソ連は極東での米国への緩衝地帯として、朝鮮半島と日本列島を狙い、なかんずく日本の北海道を当面の目標においていることは疑いなきところ」(昭和55年)
「八十年代は『破局の年代』であります」(昭和55年)
「前々から云うように、八十年代に破局は必ずまいります。破局は一つには天変地夭による破局、これは大地震であり、異常気象です。もう一つには戦乱による破局であります」(昭和55年)
「そしてこの大地震を号鐘として、それより日本は破局の坂道を転げ落ちていく」(昭和57年)
「小田原地震、おそらく今年、これはもう間違いないでしょう。(中略)私はそれを知るゆえに、昨年十二月から心を休めたことがない」(平成10年)

以上。ざっとですが、『慧妙』(平成19年、8月16日号)の記事を参考に掲載させて頂きました。

同種の予言めいた浅井会長の発言は近年においても、枚挙に遑(いとま)がありません。

何故浅井会長は恥ずかしげもなく、そのような当らぬ予言を連発するのでしょうか?

その理由について考えてみます。

一つには、「亡国は間近」、よって「残された時間は少ない」だから「急ぎましょう」と盛んに煽ることによって、会員を焦らせ、勧誘意欲を駆り立てる。

二つには、このような事は、ずっと口にし続けていれば、いつかは当ります。そしていずれ当った時、「やっぱり先生は凄い!」と会員から称揚(しょうよう)を受ける事となるのです。その事により、更に会長の神格化は確固たるものとなります。

三つには、会員の興味、意識を俗世間から切り離させること。「いくら財産や人間関係を構築したところで、数年後には無に帰すのだ、だから時間もお金も、全てを顕正会のために使う事こそが最高に尊い生き方なのだ。」という会員の信仰心を利用した奉仕者、無償労働者の形成を行うためです。

一の様な理由については、百歩譲って、多少許される辺があるように思います。
闇雲に「顕正会は恐怖心を煽っているからけしからん!」とは言い切れないと思うのです。
世間の有識者の意見を借りて、「だから頑張りましょう!」というのは、さほど悪いようには思いません。
ただし、期限を決めて断定的に言い切ってしまうという事に関しては、会員や社会に対して大変無責任だと思います。このような言い切った風の発言について多くの顕正会員は「浅井先生だって凡夫だ、多少のはみ出した発言くらいあったって仕方ないだろう。揚げ足取りだ!」とか、「広宣流布近しの実感が薄れやすい、宿縁拙(つたな)き我々に対し、確信を与えて下っているのだ」などと、主張します。
私も顕正会員の頃は予言が当たらない事に関して特に疑問を持つことはなかったですし、それに、その事を本気で信じている会員さんが周りにいるようには思えませんでした。というのは、私の周りには入信の古い人が比較的多かったからではないかと思います。つまり過去の多くの外れた予言を知っているような古参の幹部会員からすれば、予言は単なる期間限定のキャンペーンやスローガンくらいにしか捉えていないのが実情です。

二つ目の理由は、自宗の正当化と、そのまま折伏に使えるネタ作りの意図があると思います。
勧誘の現場において、いくら一・三の理由の角度から対象者に話したところで、結局ただのバカだと思われるだけですが、残念な事に、神秘的な神がかった現象というものに興味がある人というのは少なくありません。特に、宗教に無知な若年層です。実際、勧誘対象の主軸をこの若年層においているのが会の現状ですね。
予言が当ったことを会員は「現証」ということに当てはめ、逆の論理で会の理証(道理)、文証を立証せんとする謀りは顕正会の常套手段でありますが、世間にはこのような浅はかな愚論に騙されてしまう人が多いのが実相です。
およそ顕正会の辛い活動内容に耐えうるための会員の精神的支えは「先生絶対」が根幹になっており、その事を裏付けるための証拠作りを常に狙っているのです。「先生は未来がみえている」「先生の発言によって諸天が動いている」
予言はこれらの「先生は只者ではない」という会員の支持を得るための方法、手段の一つであると考えます。

続く。

富士大石寺を詐称

私がまだ顕正会に在籍していた頃、一緒に諫暁書を配布していた先輩は、
「こんにちは~!富士大石寺の者ですけど~!」
と言って訪問します。

また私と供に顕正会から法華講へ移った方は、同じく諫暁書配布の際、
「日蓮正宗です!」
と言っていたそうです。

名前を騙るのは、詐欺師の常套手段です。

猊下様は創価学会を現代の一凶と位置付けられました。
特に古い世代の方には創価といえば宗教団体、といったイメージが強い感がありますが、その他の世間一般からは「あぁ、公明党ね~」くらいで、日蓮正宗とは切り離された印象が定着している様に思えます。

しかし、顕正会は「我こそが富士大石寺」と公に世間に宣伝し、世間法を無視して、傍若無人に振る舞います。
諫暁書も大量無差別にばらまかれ、顕正会の名称の頭に「冨士大石寺」なんて入っているものだから、その人が良く目を通してもらわない限り、「なんだ!大石寺が配っているのか」と勘違いされたまま、イメージが根付いてしまいます。
違う団体だと認識してもらったとしても、まるで日蓮正宗の代理団体の様に思われてしまうかもしれません。

今、私がこうしてブログを書いている間にも、どれだけの希望に満ちた若者が顕正会の勧誘を受け、騙されている事かわかりません。
純粋な若者が、顕正会に入り、「日蓮大聖人の仏法もどき」に熱中して、親親戚に多大な迷惑をかけ、本来勉学に励むべき、一生涯の基となる貴重な時間を奪われ、やがてハッと我にかえり、「仏法なんてもう懲り懲り」といって大事な大事な「信仰心」までなげうってしまう、その事こそが本当に不憫でなりませんし、同時に顕正会に憤りが湧いてきます。

もし顕正会ではなくて、初めから日蓮正宗に縁できていればそれらの人達の人生はきっと大きく拓けていたでしょう。

勿論、個人と仏様の縁の問題ですから、全て顕正会が悪いと考えるのは仏法の考え方ではありませんが‥
しかし、
「若し善比丘あって法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」
ですから、謗法を徹底的に破折していくことが自身の仏道修行においても大変重要なことです。

顕正会。
とにかく、こんな悪い団体は前代未聞です。
これからも、ブログを通して、悪の手段や実態を暴き、同時に日蓮正宗の素晴らしさを伝え、1人でも多くの方を救える様、尽力していきたいと思います。

顕正会事件一覧はこちらから

皆、言う事が違います

現在、顕正会では浅井会長の「2020年代は広宣流布の決戦場」との発言が拡大解釈されているのか、各部の部長さん達を始め、ほとんどの幹部が、口を揃えて「広宣流布まであと6年」と会員に指導している状況です。
しかしそれは会の「中」へ向けての掛け声として定着しているわけであって、「外」であるこちらの方からは、その事にはあまり触れてほしくない様な雰囲気ですね

この「あと6年」という事は一体どういうイミなのか、私が今まで顕正会の数人の幹部さんに詰めて聞いてみた結果、3パターンの返答が確認されました。

1、絶対あと6年と言い切る!

2、浅井会長が明確に「あと6年」と発表したわけではないので、あくまで2020年代である。その様に揚げ足を取って何が言いたいのか?

3、「6年」というのは会員を励ますための方便である。だから別にそれが1年だろうと10年だろうと何だって良いのだ。

1番は総支隊長補さんの返答でした。
「絶対なるから!見ててよ!絶対だからさ~!!」
と、自信満々でした。
ウソも百遍言えばホントになると思っている、詐欺師気質ですね!
顕正会の大幹部としては立派です!
私は顕正会時代にはそこまで言い切れませんでした!
平成2年の入会だそうで…
過去の浅井会長の「当たらぬ予言集」を良く確認してもらいたいものですね‥

2番は隊長さんの返答でした。
人間としてはこの返答が一番まともなのかな?と。
しかしきっと、後輩には「絶対にあと6年」徹底して指導しているのかもしれませんね。
ただ、部長さん達が口々に「6年」と言い切っているのは事実なんですよ…
会長の娘さんだって公言しているのですから。
その理由を良~く考えて下さいね。
指導の内容を会長先生が知らないはずがないのです。

3番は副長さんの返答でした。
これは一番自分勝手というか、慢心しているというか、かなり悩乱してますね~。
あまりにも根拠のない事を軽々しく他言するものではありません。
会長や自分より役職の上の方の発言を完全に無視した考え方です。
まぁ、その様に説明するしかない心境はわからなくもないですが…

こんなに皆さんの言うことがバラバラなのに、良く「異体同心で麗しい団結」なんて言えたもんですね

顕正会「南無日蓮大聖人」という本について

顕正会員さんは「日蓮大聖人正伝」という本を恐らくは御存知ないかと思います。日顕上人が監修され、大日蓮出版から発行されている書物ですから、顕正会員さんからすれば「読んではいけない書物」「謗法の書」という事になってしまうからですね。
この本はどのような内容のものかというと、宗祖日蓮大聖人の御化導、御在生であらせられた時の具体的なお振舞いについてに著された一書で、顕正会で言うところの「南無日蓮大聖人」と同じ様なニュアンスで書かれたものです。

しかし、
顕正会から法華講に移られた方など、両方読んだ事のある方なら皆気付かれた事と思いますが、

「顕正会が南無日蓮大聖人の発刊に当り、明らかに日蓮大聖人正伝を意識しているとしか思えない程、その内容や掲載写真が酷似しているのです。」

以下。比較してみて下さい。

DSC_0460.jpg
↑これが顕正会発行の「南無日蓮大聖人」ですね。


DSC_0457.jpg

↑が「南無日蓮大聖人」。 ↓が「日蓮大聖人正伝」。

DSC_0459.jpg

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DSC_0454.jpg

↑が「南無日蓮大聖人」。 ↓が「日蓮大聖人正伝」。

DSC_0451.jpg

この伊豆配流について書かれたところのお写真は「全く同じものを使用している」事がわかります。

その他のお写真や言い回し、表現についても、「真似て書いた」としか思えない程その内容が酷似しているのです。
ここで注目すべき点は、「日蓮大聖人正伝」の初版は昭和56年10月13日。

対して、顕正会の「南無日蓮大聖人」の初版は昭和62年12月13日。

つまり「日蓮大聖人正伝」が発行され、その6年後に顕正会が「南無日蓮大聖人」を発行しているのです。

「だから何?」と言われてしまえばそれまでですが、この様な「パクリ疑惑」が契機となって、顕正会の誤りに気付く事ができたという人も中にはいるので、敢えて紹介させて頂きました











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