[日蓮正宗の教義から脱線した顕正会。 ]

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御書名の改変について(聖人御難事→出世本懐成就御書)

富士 聖人御難事
出世本懐成就御書

一枚目の写真は、「富士」昭和36年9月の創刊号。
二枚目の写真は、「顕正新聞」平成10年2月25日号

双方の写真を見比べてみると同じ内容の御書でありながら御書の題名が違っていることが確認できます。
顕正会での御書名の改変については「各々かつしろしめせり」で、既に多くの方がご存知であるかと思いますが、特記すべきことは、この御書講義の内容が掲載された顕正新聞は平成2月25日号なので、つまり、戒壇の大御本尊様が正本堂から奉安殿に御移りになると発表された平成10年4月5日よりも“前である”ということです。
浅井会長がもし、「正本堂が解体されて戒壇の大御本尊様への不敬が解消された暁には、日蓮正宗へ復帰できる。」と、本気で思っていたとしたら、果たして、御書の名称を変えて会員に教える必要などあったでしょうか?
仮に、顕正会員が平成10年4月5日後、日蓮正宗に復帰できたとしたならば、「顕正会時代に浅井先生から教わったことと違う」ということになってしまうので、その時に元会員に矛盾を生じさせないためにも、御書の改変にまで手を染めることはなかったのではないか?と思います。
つまりその後の、勤行の形式変更や、御法主上人への反逆といった、大胆な教義路線の変更に向けた伏線が、既にこの頃から敷かれていたというのが真相ではないでしょうか。

講演の冒頭、御書名を改変したことについて浅井会長は「本抄の御真筆には抄名がない。だから呼び方は他に合わせる必要はない」といった主旨の言い訳をしていますが、こういうところからも顕正会独特の体質がにじみ出ていますね。

また顕正会員に御書名の改変について糾弾すると、「それは最近になって勝手に宗門が決めたことだ」とか、「浅井先生がそのようなことをするはずがない」などと言ってくるはずなので、実際に“モノ”を見せてあげるのが、彼らに対する最も有効的な手段ではないかと思います。
法華講員さんには、可能であれば印刷して、折伏の際の一助として利用して頂ければ幸いです。
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時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構へば之(こ)れを用うべからざる事(その4)

では最後に、対告衆についてです。
日興遺戒置文の末文を拝してみます。

『万年救護の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、 敢(あ)へて疑惑を生ずること勿(なか)れ。 此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず。仍って定むる所の条々件(くだん)の如し。
元弘三年癸酉正月十三日   日興 花押 』


要するに、「後代の学問する僧侶」に対して与えられたものであって、「在家信徒」に与えられたものではないということですね。

ということは本来、この御遺誡の解釈を、在家信徒が勝手に軽々しくに論ずることは控えるべきであるということなのです。

御僧侶に与えられた御遺誡であれば、御僧侶の会通を通して拝し、そこに信を取っていくべきであって、その段階を飛び越してダイレクトに理解しようとしても御聖意を掴むことはでき得ません。

それは、御法門や教義における、知識・理解力ということに、明確な差異があるからなのです。

このことを解り易いように、顕正会に当てはめて考えてみましょう。

浅井先生は、「ここに大聖人ましませば何を命じ給うか」。常にこのことを信心の耳で聞き奉り、御奉公を貫いてきた。と、仰いますし、
登壇においても「浅井先生にお応えして参る決意であります」という決まり文句がありますが、「大聖人様にお応えして参る決意であります」とは言わないでしょう。
一般会員が直接、大聖人様の仏意を拝することはでき得ない。だから必ず浅井先生にワンクッション置かれるということは顕正会でも確たる信条として定着していますね。
また浅井先生以下の会員の中でも、例えば「入信勤行の導師は副長以上に限る」といったように筋目関係が存在していますよね。

しかし、元来日蓮大聖人の仏法において、その取次ぎ役のポジションというのは僧侶が担っているのです。
就中、それは御法主上人(本師)なのです。
その御法主上人から代理としての命を受け、各末寺に派遣されているのが、末寺住職(小師)という存在です。、この末寺住職は、在家信徒が直接的に「師・指導教師」と仰ぎ、個人の仏道修行を進めていく上で最も身近で重要な存在といえるでしょう。

ですから「大聖人」→「御法主上人」→「末寺住職」→「在家信徒」といった筋目を違え、外れてしまった者がいくらこの御文について講釈を垂れたところで、単なる部外者の持論・自説でしかないということになります。

この御遺誡の解釈ということに限らず、結局、御書の解釈というのは、あくまで御僧侶の会通を元としなければ真意は拝し得ないということです。
この「僧俗一致」の精神を広く世に弘め、その極まった相(すがた)が「広宣流布」であるということなのです。

顕正会、浅井会長は、その信仰上の土台となる環境を自らがすすんで放棄してしまったといえるでしょう。

終わり。

時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構へば之(こ)れを用うべからざる事(その3)

次に条文中の「之(こ)れ」の解釈ですが、そのことについて日達上人は、あくまで貫首、即ち「御法主上人」を主観にして「仏法に相違して己義を構える者」と、読むべきであると仰せです。

しかし、日顕上人は、この日達上人の会通を示された上で、「別の意味もある」として、「もし貫首が己義を構えた場合、その意を用いてはならない」とも仰せになられています。

こちらの解釈の方が、顕正会で教えている読み方に近しいところがあるかとは思いますが、その後にさりげなく「このようなことは絶対にありえませんが」と一言添えられている点については大変重要です。

つまり、「絶対にありえない」というのは、御法主上人の立場上での表現と拝すべきであって、御法主上人以外の宗門僧俗においては御法主上人の意に対して「たとえどのような内容であったとしても、それが直ちに己義であると早計に判断すべきではない。どこまでも信奉・随順していくべきだ」という意味合いとして捉えるべきではないかと思うのです。

確かに顕正会の言うように、当時創価学会の、正本堂についての教義上の意義をめぐった宗内での紛糾に端を発して、52年路線と呼ばれる教義逸脱問題に続く一連の流れに対する御法主上人の言動、振舞というのは、学会以外の僧俗の目線からは到底理解し難いものであったかもしれません。
管長としての対応が教義に照らした上で適切ではなかったのではなかろうか?「慰撫(いぶ)教導」という表現では納得できない。創価学会のみに肩入れして、それ以外の僧俗に対して平等に慈悲を垂れていたとは思えない。
等、様々な疑心暗鬼が宗内に蔓延していたのは事実であったのでしょうし、私も当時その場にいたとしたら、日達上人の御説法を消化できずに、信用を喪失していたかもしれません。
思うに、心だけはどうしようもありません。「疑うな、信じろ」と言われても、心の中で整理がつかない時はありますし、それは仕方のないことでしょう。

ただし…。
用いないのは、あくまでその御法主上人の「意」にとどまらなければならないのです。
つまり「之(こ)れ」とは、万一にも御法主上人に分明なる己義があった場合に、その己義のことを指しているのであり、「御法主上人の御事」というわけではありません。

御法主上人自体を用いないという意味ではないのです

『義浄房御書』には、
「相構(あいかま)へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり」
と示されております。

自分の心を師としてはいけないのです。

浅井先生が「考えや信念」を貫いた姿はカッコ良いかもしれませんし、その振舞がもたらした他への影響力も大きかったかもしれません。
つまり浅井先生が「師」としたのは「自分の考え・信念」なのです。

たとえ一時的に、御法主上人への信受が叶わず、「意を用いない」ところまでは許されたとしても、だからといって「師を用いるな。師を捨てて自分の信念に従って行動すべし」などとは、どこにも書いてないのです。
「時の貫首たりと雖も…」についての記事【その4へ】

時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構へば之(こ)れを用うべからざる事(その2)

僭越ながら、この日興遺誡置文の条文について、前記事に記載した日達上人・日顕上人の会通を元に、出来るだけ顕正会員に理解し易い様に、内容を噛み砕いていきたいと思います。

具体的には、条文中の「仏法」と、「之(こ)れ」ということの意味について。そしてこの御遺誡の「対告衆(たいごうしゅう)」について。以上、三つの観点から考えていきます。

まずは「仏法」とは何か?についてですが、顕正会員さんならきっと迷わず「成仏という境界を得るための実践法だ!」と仰ることでしょう。そのように折伏理論書の一章の冒頭には記されていますね。
しかし、「もっと具体的に、一体どの様なものを指して仏法というのか?」
と問われたならば、一考した後、それが幹部会員であれば、「浅井先生の御指導」と答えるかもしれません。下々の会員であれば「勤行」とか「南無妙法蓮華経」と答えるかもしれません。ここでは幹部の答えが的を得ています。

日達上人の御指南を拝してみます。
日達上人は「憲法があるだけでは仕方がない」と仰せられているように、仏法=御書や先師上人のおことば。ということでは決してありません。
法が独り歩きして、弘まるなんていうことはありえません。
百六箇抄には
「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」
とあります。
御書や先師上人のおことばはあくまで「鏡」なのです。憲法に当ります。それは「法の原理原則が示されたもの」であるということなのです。
ですから「御書や先師上人のおことば」から導き出された具体的・実践的な教えの内容。
ズバリそのことを指して「仏法である」ということができると思います

ここで最も留意しなければいけないのは、その教えというものも、時代に応じてその都度、最も適切な解釈が必要となってくるということ。

一例を挙げれば、三大秘法抄における「勅宣」や「御行書」といったものは、現在存在していません。ということは「実践的」ではないのです。ですから御聖意を損なわないように、現代の様式に則った、最も近しい妥当な意味合いを当てて、「実践的」な内容にしなければ、「仏法」にはならないのです。

ただし、誰が会通しても、誰が決めても良い、正しい、という事になってしまったならば、日蓮大聖人の仏法が無数に乱立することとなってしまいますから、必然的に、その権利、能力を有する人に限ることとなります。

唯一人、それを有する、決められた方のみが教えを説く。須(すべから)く、そこに「信」を取る。

その決められた方というのが日蓮正宗の御法主上人なのです。つまり、「御法主上人が御書や先師上人のおことばを亀鏡として導きだされた、具体的・実践的な教え」。それこそが「仏法」なのです。結論から言えばそういう事です。

なぜ御法主上人なのか?先に述べた様に「唯授一人血脈相承」という「権利」という面から。また、未だ公に開示されていない「相伝」を含む、法の一切を知り得、掌握している事実から、その「知識・能力」という面から考えても、決して他に該当者を見出すことはできません。

顕正会員は「浅井先生がおられなければ仏法を知り得ることができなかった」というはずです。
例えば勤行の形式をある日突然変更したり、塔婆も急遽廃止したり、それは顕正会員から言わせれば「浅井先生が御書や御書に示される法の本義・本筋の上から決められたことなのだ」ということになるのでしょう。

しかし、仏法が仏法である根拠は、その発生源が有する「権利、能力」なのです。
浅井先生に「権利・能力」を有する根拠などどこにもありません。
事実、そこを話の争点にして顕正会員さんと議論しても、全く要領を得ません。

根拠がない。ということは、仏法の発生源は浅井先生ではないのです。

ですから浅井先生の御遺誡に対する解釈、即ち、仏法ではないものを挙げて、「仏法と相違しているではないか!」といったことろで、もはやそれは当たり前のことなのです。

また、言い換えるならば仏法とは「師伝」です。

同じ日興遺誡置文の条目で
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事」
とあります。
この条文からも「御抄」だけでは「仏法」は成り立たないということが窺えます。
極理は師伝の中のみに存するのだということなのです。
浅井先生は達磨大師のように、師伝を抜きにして、自ら悟りの境地に達したクチではないでしょう。
浅井先生も御法主上人を「師」としてきたのです。
少なくとも日蓮正宗から除名となる昭和49年8月まで、松本日仁師を「手続の師」とし、御法主上人を「本師」とする環境下で、仏道修行に励んできたのです。

ということは、除名になるまでの途上において、その解釈は一体誰を師として伝え聞いたものであるかということを明確に皆に示すべきでしょう。「師伝」の太鼓判が捺されていないものをいくら説こうとも、それは単なる「自説」であって決して仏法ではありません。師伝の源が不詳であったならば、そこに須く、訝(いぶか)しさを感じるべきでしょう。

浅井先生と顕正会員の師弟関係のみを強調して、肝心の“浅井先生と浅井先生の師”との師弟関係をひた隠し、誤魔化しているのです。
以上。これら私が述べたことを総括して整理すれば、
「現在の御法主上人の御指南が仏法である。自分の解釈が正しいと主張するならば、それが師伝である根拠を明示すべきである。できないのであればそれは単なる自説であり、正に、条文中に示される“己義”そのものである。」
と、断じることができます。

しかし顕正会員さんにとって日達上人、日顕上人の御指南に信を取ることは極めて困難だと思われますので、以下に「日淳上人」と「日昇上人」の御指南も掲載致します。

【日淳上人「弁惑観心抄」序文】

 仏法を信行するものに於て最も相(あい)戒(いまし)むべきは未得謂得、未証謂証といふことである。即ち猶未だ仏法を体達せざるに体達したといひ、未だ証悟しないに証悟したといふことである。此のことは独り自ら地獄に堕つるばかりでなく、他をして邪道に入らしむる因となる。法華経の会座には五千人の増上慢比丘が席を退いて仏になりそこねてをる。
 兎角(とかく)仏法を学習するに経巻典籍を究むればその奥底に達すると考へがちであるが、仏法は理論を至極とせずに実践生活の在り方を主目とするから、教説によってのみでは淵底(えんでい)に徹することはできない、こゝに佛法に於ては師資相承の道を重要視するのである。即ち師弟相対して信行を進めることである。此のことは真に仏道に於ける要である。然るに稍々(やや)もすれば師を立つることを知らず又軽んずる者があるが既にその事自体が仏法に逸脱し混乱を生ぜしめるものである多く己義を構へ新義を主張する禍因は此処に起る。若し一度此の邪義の淵に堕すればまた出づることも難く、遂に獅子身虫となり終るのである。よって仏法を信行する者は必らず師弟の道を尊重し師資相承の跡を尋ね、その正しき法流を確めて清水を汲まねばならない。世上仏法の混乱今日より甚しきはなく邪義愈々熾(さか)んに行はれつゝあるが、此れ主として師資相承の重要なることについて無知であるからである。

【64世日昇上人 日蓮正宗聖典「序」】

「由来法門上の異説異見は何によって起こるかといえば機根が猶お未だ熟さないうちに自らを省みず直ちに御書の一文一義に執して妄断するからである。即ち我見に任せて己義を立つるからである。古来仏法に於いて相承を尊び師伝を重んずるのは一に此の弊をなからしむるためである。聖祖は『法華経は相伝に非ずんば知り難し』と仰せられている。蓋(けだ)し仏法の奥底は相伝によって正しく理解することが出来るからである」
「時の貫首たりと雖も…」についての記事【その3へ】

時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構へば之(こ)れを用うべからざる事

顕正会では、日興遺誡置文のこの条目を「仏法を曲げた貫首は用いなくてもよい」などと強引に解釈を歪曲し、会の存在意義の正当化を図る一つの拠所としていますね。
 『守護国家論』には、邪教を弘める行者の特徴として、
「或は小(すこ)し自義に違ふ文有れば理を曲げて会通を構へ、以て自身の義に叶はしむ」
と示されています。
自分の御都合に合わせた自分勝手な解釈こそ、正に、条文中に示される「己義」に附合するのだということです。

以下。この条目についての日達上人、日顕上人の通釈を、過去の御講義から該当箇所を抜粋し掲載致しました。
顕正会員さんにおいては、じっくりと何度も読み返して、日興上人の御聖意をしかと銘記された上で、須く信仰の寸心を改められんことを念願致します。

【日達上人御講義 昭和45年6月28日 富士学林研究所の砌】

 「 時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之れを用うべからざる事。」(法主全書一-九八)
 これをとって、私が己義を構えているようなことばかり言う人がありますし、それをまた信者の人でまねをして言う人がある。
 過日は、高知の大乗寺の檀家で総代であったなんとかという者が、一生懸命にこれを書いて、人のところへ手紙を寄こす。大乗寺の事件において私は己義を構えたことなんか少しもない。それを「己義を構えた、己義を構えた」と言ってますね。これについて少し説明したいと思います。
 私は自分で勝手に己義を構えて勉強しているわけではないのです。やはり若いときは日亨上人について触強もしたし、日開上人について勉強もしてるんです。決して己義を構えてかってなこと言いたいほうだいに言っているのではない。
 その前に、
 「下劣の着たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。」(法主全書一-九八)
 これに対して、そのあとに、
 「衆議たりと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。」(法主全書一-九九)
とあります。
 それで、「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えたならば、」さきほど誰かが言ったが、構えたか構えないかは誰が判断するんだということになるんですね。そうすると、すぐに、「御書によってだ、」あるいは、「先師のおことばによって、」となる。じやあ、先師のおことば、あるいは御書に相違しているかは誰が見つけるかということになる。そこで問題です。御書はあるにきまっているので、これは鏡です憲法があって、悪いことをしたとする。それは憲法があるからと言ったってただそれだけでは仕方がないでしょう。悪いことをしたから、その憲法に照らしてどのくらい悪いかを調べるのが裁判官である。だから、現に泥棒がいてつかまったって、これは容疑者としてつかまえているのであって、はじめから、これはこういうことをしたというのではない。裁判にかけてこそ、はじめてこれは泥棒であったとか、こういうことをしたからこれだけの罪があるとかというのである。御書があるといったって、御書と貫首の言ったことを誰がそれを裁判するのか。末寺の住職が裁判する、とここに書いてあればよい。あるいは隠居さんがしろ、と書いてあればよい。しかし、何もないじゃないですか。ところがこっちにはあるでしょう。「下劣の者たりと雖も我より」と、ちゃんとあきらかに第一人称がある。「我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事」自分より勝れている者は、たとえ下劣の者たりといえども、師匠としなさい。こちらもそうです。「衆議たりと雖も仏法に相違あらば貫首之を摧くべき事」と明らかに第一人称があります。ところがこれはないでしょう。ないにもかかわらず、すぐに貫首が己義を構えた、なんてとんでもないことを言ってるわけで、これは少し考えてもらいたい。

 これの意味は、「貫首であっても、仏法に相違して己義を構えるそういう者を用いてはいけない」というんです。貫首は誰を用いてもいいんだ、誰でも用いられる。どういう役にでも、あるいは自分の補処にでも、何にでもできる。しかし、仏法に相違して己義を構えた者はこれを用いてはいけないと書いてあるんです。だから、ぜんぜん話が違う。それを、ただ、貫首が仏法に相違したからこれを用うべからずなどと、何を言うんだかさっぱりわからない。これはよく考えてくれなければ困る。そういう解釈がちゃんとある。一つはふつうに今まで言ったとおりにしてもいちおうは通るにしても、もうひとつ深い意味があるということを考えてもらいたい。その例があるでしょう。
 今、聖教新聞の人間革命によく出ている小笠原慈聞がそうじゃないですか。小笠原慈聞がはじめ処分された。処分されてまだ処分の期限が切れないのに、あれを採用してしまったんです。それだからあんな事件が起きてしまった。だから、神本仏迹などという、仏法に相違して、己義を構えた者は、これを用いてはいけないのである。

【日顕上人御講義 第41回全国教師講習会の砌】

例えば、皆さん方の総意で私に退座を求めたとします。今、創価学会では盛んにヒロエ・クロウなる者の虚偽に証言を喧伝しておりますので、それが全く事実でないにしろ、私に徳がないからそのようなことになるのだということで、仮に皆さんが、退座すべしとの決議をしたならば、私は沈思して考えます。つまり、それが宗門にとって、また御法のために必要であるならば、私は自らの意思で退座することもありうるということであります。しかし、それが御法のためにならないと判断した場合には絶対に退座いたしません。これは、日興上人の二十六箇条に、
「衆義たりと雖(いえど)も仏法に相違し有らば貫首之れを摧(くじ)くべき事」と示されておるとおりであります。
その反対に「時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事」
ともあります。これについての日達上人の御解釈は、貫首に主語があるというもので、すなわち、貫首は、仏法に相違して己義を構える者を用いてはいけないというものでした。
しかしまた、別に意味において、貫首が己義を構えた場合にはその貫首の意を用いてはならないという在り方も、私はあると思います。
このようなことは絶対にありえませんが、仮に「これから南無阿弥陀仏を唱えようではないか」と私が言い出したとしたならば、皆さんは用いないと思いますし、絶対に用いてはなりません。また私を放逐(ほうちく)しようとすると思います。
けれども、この日柱上人の場合は絶対にそういうことではなかったと思うのです。ただ、衆議が色々と出て、それを日柱上人が深くお考えあそばされた上で、ここは私が退いたほうが御法のためになるとの、自らの深い御思慮の上からの決断であったと拝するのであります。したがって、「辞職させることはできるのでしょうか?」という質問に対しては、はっきりと、
「辞職させることはできない」
と、申しあげておくものであります。
(中略)
とにかく、それらすべてをお考えあそばされた上えの、自らの決断による辞職であったわけです。
「時の貫首たりと雖も…」についての記事【その2へ】

「日顕上人は浅井先生の法論対決から逃げた」との邪難について 2

前回記事の続きです。
総本山大石寺、第九世日有上人『化儀抄』より。

『第44条 処分者に交わるな』

『一、上代の法には、師範より不審を蒙る族(やから)をば一度訪(とぶら)うべし、二度は訪うべからず、と云う大法なり。其の故は、与同罪の科(とが)大切なり。又、堅く衆に同心に会せずしてこらさんが為めなり。亦、衆に見こりさせん為なり。』

本宗(日蓮正宗)においては、日蓮大聖人・日興上人の代から定まっている掟として、師匠から謹慎などの処分を受けた人に対しては、一度は、その人を戒めるために訪問し、話をしても良い。しかし、二度とは、その人を訪問してはならない、というのである。
「其の故は」。なぜ二度とは訪ねてはならないのか、その理由を三つ挙げられている。
まず、一番目の理由は、与同罪を恐れるからだ、とされている。
要するに、一度でわからなかった者に、二度、三度、重ねて話していくと、人情に絡まったり、言葉巧みにたぼらかされたりして、結局、自分も相手と同じ気持ちになっていってしまう、それでは与同罪になってしまうというのである。
二番目の理由としては、処分を受けている人を孤独にすることによって、よくよく反省させるためだ、とされている。
実際、閑静なところで孤独にしておかれれば、まだ反省することもできるが、愚痴を聞いてくれたり、話すことによって気が紛れる、というような相手がいると、なかなか心からの反省ができなくなる。ましてや、これまで付き合っていた人が、今までと変わりなく、頻繁に訪ねてくるということになると、悪いことをしたという自覚が、だんだん薄くなっていってしまうものである。
三番目の理由としては、処分を受けて孤独な状態におかれているという姿を大衆にみせる事によって、いまだ罪を犯していない人達の、将来の戒めにするためである、とされている。
(化儀抄のやさしい解説 P112~113)

顕正会では日有上人の存在すら知らない方が多いかと思いますが、顕正会勤行要典の御観念文に「…冨士大石寺歴代血脈付法の御正師云々」とある以上は、総本山第九世日有上人も敬うべき先代の御正師と知らなければなりません。

二番目の理由に「孤独にする」とあります。今の顕正会員さんにはあまり実感がないと思いますが、妙信講時代は当たり前のように行われていた大石寺への御登山も許されなくなる事も意味しますね。

顕正会員さんがまず忘れてはならないのは、「顕正会の前身は日蓮正宗妙信講であった」という事、つまり「スタート時は日蓮正宗の一講中であった」という事です。

ですから、教義も全て日蓮正宗の真似事、時を経ると過去の事実は記憶から薄れてしまいがちですが、全ての出発、大本はそこからなのです。

つまり顕正会は日蓮正宗からすれば「処分者」という扱いになるのであって、解散処分後の日蓮正宗から顕正会に対する接し方や、関わり合い方については、他の宗派とは相違があって当然でしょう。

顕正会は本来、日蓮正宗に対して「反省・懺悔すべき立場」であって「決して攻撃する立場」ではないという事です。

翻って言えば、日蓮正宗側から顕正会に求めるものというのは「反省・懺悔」なのです。

ただし、破邪の精神に基づいた道理の上から、御法主上人に代わった御弟子さんが公式に返書という形に著し、最低限の然るべき対応したものと拝します。

日蓮正宗は「信仰の団体」ですから、チンピラ同士の喧嘩などとは全くわけが違うのです。

上代の定めし掟に従う事は伝持付属の意義からしても基本的には大変重要な事なのだと思います。ただし、どの部分が本義・本筋であるか、外れなくとも、どの範囲まで寛容な解釈が許されるのかといった御判断は時の御法主上人に一任されるところなのでしょう。

三番目の理由である宗内の戒めという意味においては、浅井会長の宗門離反の姿こそ正に大変良い反面教師になっている事は間違いありません。

「日顕上人は浅井先生の法論対決から逃げた」との邪難について

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『顕正会会長 浅井昭衛の“最後に申すべき事”を砕破す』

この本の存在を知る顕正会員さんは極めて少ないと思われます。

この本は題名の通りですが、あえて説明させて頂きますと、顕正会浅井会長が『最後に申すべき事』と称す一書を著し、当時猊座におられた日顕上人に対して送付したものを、日蓮正宗青年僧侶邪義破折班が日顕上人に代わり、その内容について徹底的に破折し、顕正会浅井会長に返送されたものです。

大聖人様が「開目抄」の中で仰せの、

「智者に我が義破られずば用いじとなり」

とは、勿論、大聖人様の義は断じて破られぬとの御聖意が込められているものと拝するものですが、翻って、万一にもその法義が破られた場合には、道理に従い相手を用いるに至るという意味も含まれるのではないかと思います。

確か、顕正会は「日本で唯一、大聖人の仏法を清く正しく実践している団体」のはずですね。

日蓮正宗の御僧侶方を腐敗・堕落と蔑(さげす)むのであれば、このような返書など、顕正会が護持するはずである清く正しい法義と、浅井先生の卓越した教学力あれば早々に一蹴することなど本当は朝飯前なのではありませんか?

浅井会長がなぜ『最後に申すべき事』を著し、なぜわざわざ御法主日顕上人に送付したのか、その契機や、どのような背景があったのか、知る由もない顕正会員さんにまずは教えて差し上げたき事があります。

以下。『顕正会会長 浅井昭衛の“最後に申すべき事”を砕破す』から引文させて頂きます。

「日蓮正宗では御法主上人の指揮の下、汝を含む様々な異流儀教団を折伏しているが、その中でも総本山塔中理境坊の講中である妙観講では積極的に顕正会への折伏を展開し、顕正会では脱会者が相次いでいたのである。折伏活動が積極的に展開される中、法華講員に屈服させられてもなお汝を盲信する哀れな顕正会員は、浅井会長なら顕正会の正義を証明してくれると考え、「浅井会長をお連れするから、大草講頭と浅井先生で、ぜひ、法論して頂きたい。」と汝を日蓮正宗法華講大講頭で妙観講講頭の大草一男氏との法論対決を申し出たのである。大草氏は即刻喜んで受けて立つ旨を顕正会に伝えたが、汝は今までの経緯からして勝ち目がないと考えたのであろう、さりとて会員の手前逃げるわけにもいかない。そこで汝は宗門が応じるはずのない無理難題を御法主上人につきつけて“対決”なるものを要求し、結果的に大草氏との法論対決の回避を狙ったのである。つまり“完全に逃げた”のは汝なのである。まさに汝こそ“対決を為し得るはずもない”卑怯者ではないか」

数か月前、私はある宗門末寺である御尊師からお聞きしました。その御尊師はたまたま大草大講頭と総本山で居合わせる機会があり、そこで直接お話しをした際に、その法論の事について少々訊ねてみたそうです。大草大講頭は浅井会長との対決について「いつでも受けて立つ」と堂々と仰っていたそうです。

そして更に、最近では法華講員樋田昌志さんが三度の公開対論、及び、公開文書対論を要求されましたが、今回も浅井会長はどうやらだんまりを決め込んでいる御様子。

樋田晶志さんは最初の『公開詰問状の中』で、

「貴殿がこれを受けなければ、顕正会員等が嘯く「日顕管長が臆して対論から逃げている。」との戯れ言はそのまま、
「浅井先生は法華講員からの正式な公開対論申込み状から逃げている」と、貴殿自らが受けかぶることになる。
貴殿が、当方を「無位な一痴犬」と蔑んで、法論から逃げるとするならば、貴殿自身も、日顕上人から見れば「ただの異流儀の謗法者の与太者・一痴犬」程度であるから、相手にされないのと同様である。
貴殿が、当方を「程度が低過ぎ、馬鹿馬鹿しくて相手にしない」というならば、貴殿自身も、日顕上人から同様な理由で「相手にする価値なし。」と言われたとしても、言い逃れができない理屈である。」

と仰せです。

浅井会長は法華講員からの法論や文書対論さえ応じません。

しかし日蓮正宗は正式に浅井会長の法論申込みに対し、法に則した然るべき対応をしてきているのです。

顕正会員さんはあの「最後に申すべき事」に返書があったことや、一法華講員から公開対論を迫られている事は一切知らされません。

続いて、御在世、大聖人様のお振舞を拝してみます。

大聖人様は身延を下山し、池上邸に向かわれる道中、山門の衆徒二階堂伊勢入道の子息“伊勢法印”が同宿の十余人、若党三十余人を引き連れ、「日蓮と問答すべし」と乗り込んできた。大聖人様ははやる弟子一同を制止し、

「卿公、問答せよ」

と、日目上人に命ぜられたのです。
そして大聖人様はこの問答の勝利を報告した富木常忍に対して、

「さればこそ日蓮が見知りてこそ卿公を出だしたれ」

と仰せになられているのです。このことは以前に浅井会長もお話されていましたので、多くの顕正会員さんは御存知かと思います。

しかし、果たしてこの伊勢法印からの法論申込みに、大聖人様は「逃げた」といえますでしょうか?

大聖人様が法論の場に出てこなかったからといって、大聖人様は卑怯者である、その門下はことごとく謗法である。と断定するのでしょうか。

代わりの弟子に法論させるという事は御在世から行われてきた事実があるようです。

日顕上人が直接法論に応じないからといって、ただちに「逃げた」と断定するなどという事は、大聖人様が伊勢法印との法論から逃げたというに等しいのであり、正直な顕正会員さんは確りとした事実を知り、冷静に考えれば、浅井会長の屁理屈と、いかにつまらない難癖であるかという事が浮かび上がってくるはずです。

続く。

『遥拝勤行』の誤りについて 3 『信心の血脈』

前記事の続きになります。

“遥拝勤行”がいかに思い上がった考え方かという事を認識して頂くためには、『信心の血脈』に関しての理解が必要です。

例えば、水の沢山溜まった“ダム”があるとします。その水を「許可なく」勝手に引いてきて、使っても良いと思いますか?

功徳は良く「水」に例えられますが、顕正会でも入信勤行の際「この本門戒壇の大御本尊様はあらゆる功徳が収まり、具わっております」と教えられます。
ですが、もしその功徳、貯水を許可無しに使っているという事なのであれば、それは犯罪なのです。

またもし、別の例えをするならば、携帯電話がいかに遠く離れた人とも会話する事ができる便利な道具であったとしても、回線の契約が必要不可欠なのであり、使用する本人自身が然るべき手続きを踏んだ後、初めて利用が可能となるわけですね。

では具体的にどの様な手続きを取れば良いのか、どなたの許可を得れば良いのかといいますと、

当然「日蓮大聖人様の許可を得なければならない」という事になるのであり、その「日蓮大聖人様が定められた手続きに則る」事が必要条件となってくるわけですね。
要するに、信心の対境である法体の大御本尊様は即、人本尊、日蓮大聖人様なのであり、生身の御仏であられるという事です。

しかし現在、大聖人様の許可を得るといっても、既に700年以上前に御入滅されているわけですから、物理的に不可能ではないかという事になってしまいますが、令法久住の大白法がそんなチャチなものであるはずがありません。

御本尊七箇之相承には、

『代々の上人、悉(ことごと)く日蓮と申す意(い)なり』

と、この様に御相伝されています。

では現在、大聖人様の意を継いでおられる代々の御上人は一体どなたかといえば、「総本山第68世、日如上人猊下」であらせられます。
考えるべきは、昭和49年、顕正会は日蓮正宗から解散処分を受けて追放され、以来現在に至るまで御法主上人猊下に認められていない団体なのだという事なのです。

現御法主上人猊下の許可を得ていないという事は、上記の御文を拝せば、「大聖人様の許可を得ていない」という事に通ずるわけであり、仏意に適わぬ己義なのです。

つまり信じて遥拝すれば「大御本尊様に直接通じる」などというのは単なる「妄想」に過ぎないということですね。

総本山富士大石寺において、中興の祖と仰がれる「第九世日有上人」は「化儀抄」の第四条に、次の様に仰せです。

「手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能(よ)く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此(か)くの如く我に信を取るべし、此(こ)の時は何(いず)れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり」
<現代誤訳>
「自分の直接の師匠に当たる方の身には、一切の仏を含め、御本仏大聖人已来の御歴代上人のお悟りが貫かれ、宿っているのであるから、師匠となる方の心を確りと受け止めて、心に定めて信じ従っていくべきである。又、私日有の弟子にあっても同様に、直接の師匠である私を信じて修行していきなさい。手続の師匠を信じて仏道修行に励む時は、誰もが妙法蓮華経という大聖人の悟りを心身と全く同じ仏の境界となるのであり、これを即身成仏をいうのである」

この中で仰せの「手続の師匠の所は…」というのは、日有上人御自身、自分の手続の師匠となられた総本山第八世・日影上人に対して信心を取り定めたことで、大聖人様の仏法を体得し、血脈を授かる立場となったことから、私の弟子達も同様に、直接の師匠を信じて修行を積むことで、必ず、仏力・法力を授かる身となることを教えられているのです。

『遥拝勤行』の誤りについて 2

前記事の続きになりますが、『千日尼御返事』御述作の背景とそこに含まれている本意たるものを顕正会員さんが柔和な心で実直に拝した場合、信仰上の組織の在り方について、現在の顕正会の組織論に相反する大きな相違点が存する事にお気づき頂けるかと思います。

そうです。大聖人様は阿仏房夫妻、国府入道夫妻の信仰上での組織形態を『一家・世帯』とし、一括りにして捉えておられるわけですね。

顕正会でも、顕正新聞に「信心の語り合いで一家和楽」等の記事をしばしば見かける事はあります。
しかし、基本的には男子・女子・婦人と三者にハッキリと分けられいますから、少なくとも同じ先輩から指導を仰ぐという事は一切ないという事は言えます。
決定的な違いはそこで、法華講の場合夫婦や親、兄弟であっても「支部」が同じであれば、共通の指導教師から指導を仰ぐのであり、各々の家庭の事情や個々人における家庭内での立ち位置、生活面での役割等を一通り把握した状態の上で指導教師が仏法の眼から仏意に叶ったアドバイスを下さるのです。
一家が生命活動の営んでいくにあたり、例えば家族の中に乳呑児がいれば、夫か特に妻が世話をしなければならないわけですが、顕正会では仮に両者の会合の日程が被ったりした場合、どちらかは御奉公ができない、功徳が積めない、と偏った考えに陥り、上長も大概は家庭の状況など汲んでくれないわけです。
ただ、全ての顕正会組織が今述べたままに当てはまるとは限りませんが、私の体験談として、婦人部大会の時、男子が送迎をする事に対し、部長は「そんな暇があったら折伏しろ」と同じ家庭内の顕正会員に対して、あからさまに非協力的な指導がありましたし、妻と一緒に折伏した対象者(男性)を私の紹介という事にして男子部で入信させた時、妻はその後婦人部長に「なぜ婦人に入れなかったのか」と、激しく罵倒された、という事もありました。これらはほんの一例です。
しかし多くの顕正会員が、現在この様な「家庭放棄」、「信心に関しては家庭内では不干渉」といった様な状態にあることは想像に難くありません。実際に顕正会の家庭不和話は良く耳にしますし、顕正会の活動スタイルを考えれば当然の報いだと思います。
浅井会長は「自他彼此の心なく」と指導しますが、実態が伴わないのは、心が狭く、余裕などまるでない、顕正会の害毒が如実に顕れていると言えます。
それでは、全ての組織を総括する存在は顕正会においては浅井会長唯一人ということになりますが、指導は常に一方的で、相談や質問など以ての外、もしお手紙など書こうものなら即、「除名」ということになります。
更には、会が同じなのだから、具体的に指導の内容が一貫していて共通であるのかといえば、全くそんなことはないわけです。
部によって「白」といってみたり「黒」といってみたり…
また同じ部内であっても、隊や区、支部が違えば、これもまた言う事がバラバラです。

顕正会は、御在世の信行の在り方を現代にそのまま移して実践していると主張しますが、それであれば、阿仏房夫妻のように、一世帯での信仰という枠で指導を受け、実践する修行こそが、大聖人様の御心に適った本来の在り方ではないかと思うのです。

日蓮正宗では「留守番の功徳」という事が言われております。

以下、『質問会集』より

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天台大師の『法華文句』で『法華経妙荘厳王品第二十七』について釈せられた中に、次のように説かれています。

昔、四人の仏道修行者がいました。ところが、仏道修行に出かけるには、誰かが残って家を守り炊事などしなければなりませんので、やむなく残ることになった1人は修行をすることができず、仏道を得る事ができませんでした。
ところが他の三人の仏道修行を支えるために留守番をした功徳で、その人は次の世に国王となって生まれました。その時、他の三人は、王の后と二人の王子として生を受けたのです。
そして再び仏法に巡り合った后を王子達は、過去世の修行の功徳によって、すぐに仏法に帰依することができました。
そして過去世の恩に報いるため、三人が力を合わせて王を教化し、ついに王も仏法に帰依することができた。
というのです。
このように、他の人達の仏道修行を支えるために、やむなく残って留守番をすることにも功徳があるのであります。

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前記事から少々話は逸れましたが、顕正会員さんが『千日尼御返事』を“遥拝勤行”を正当化する裏付けとして引文するに当り、まずは上記を前提として踏まえた上で、御書を拝して頂かない限りは、前記事の内容について、なかなか理解が及ばないのではないかと考えたからです。
とにかく「大聖人様に会いに行かなくても良い」と考えるのは単なる「懈怠」であり、「遥拝でお会いしている」と考えるのは、甚だしい勘違いです。

『遥拝勤行』の誤りについて

理論書 遥拝
経本 遥拝

一番目の画像は“顕正会 折伏理論書”の5章、「遥拝勤行」についての説明。

二番目の画像は“冨士大石寺顕正会 勤行要典”で同じく、遥拝勤行の説明書きのところです。

「信心に距離は関係ない。信心さえ純粋強盛ならば、いかなる隔たりをも乗り越えて、ただちに大御本尊に感応し、大功徳を生ずるのであります。」
との事。

その文証として『千日尼御返事』の

「譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、(中略)御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」

との部分を引文して、教義の正当化を図っているわけですが、今回は、この引文自体が如何に根拠のない、荒唐無稽なこじつけであるか、という事について論証していきたいと思います。

顕正会の組織に嫌気がさして、活動を離れた様な人が、自宅に御本尊様がないにも関わらず、「自分は大御本尊様に向かって勤行しているから結構」といって、我見の殻に閉じこもり、自己満足して、なかなか日蓮正宗に帰伏するに至らないというパターンは案外多いのではないでしょうか?
「顕正会はもう懲り懲り!でも日蓮正宗も(顕正会で悪いイメージを植え付けられたが為に)嫌だ!だけど…。御本尊様は信じている」
といった顕正会退転者が、得てして、その様なパターンに陥り易いのも、顕正会の教義を良く知っている人間からすれば、その心情は容易に理解する事ができます。

しかし、
その様な考え方自体が浅井会長の嫉妬心から生じた、己義、邪義であるという事。
そして、そのような化儀は日蓮正宗において端(はな)から存在しないのだという事を良く知るべきなのです。

『千日尼御返事』の御述作の背景を考えてみましょう。

千日尼とは大聖人様が佐渡配流の時、帰依された阿仏房の妻です。
御書をお認めになられたのは、大聖人様が身延におられた時。
そして、弘安元(1278)年七月二十七日、阿仏房は九十歳の高齢でありながら三度目の参詣をしました。この年は疫病の流行はすさまじく、民衆の大半がこれにかかり、死んでいく者が後を絶たないありさまでした。
大聖人様は昨年、一昨年と姿を見せなかった阿仏房が、もしや疫病に悩まされているのではないかと、遠く佐渡を偲ばれ、その身を案じておられました。
その阿仏房の姿をみつけるや、いちはやく「尼ごぜんはいかに、こう入道はいかに」(御書P一二五四)
と尋ねられ、「いまだ病まず」との無事を聞いて、ようやく安堵された。
この時認められたのがこの『千日尼御返事』というわけです。

「去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」

と、大聖人様はこの様に、身延入山後、わずか五カ年のうちに、三度も高齢の夫を遣わした千日尼の深い信心を、大地よりも厚く、大海よりも深い志であると褒めたたえられています。

また、一度目の阿仏房の参詣の際には「国府(こう)入道」も一緒であられたそうで、その国府入道の妻である「国府尼」と千日尼に対し、

「さしも大事なるわが夫(おとこ)を御つかいにてつかわされて候。ゆめ(夢)かまぼろし(幻)か、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ 」(国府尼御前御書P七四〇)

と、二人の夫を遠き身延まで遣わした妻たちに対し、この『国府尼御前御書』を書き送られ、
「よくぞ大事な夫をさし遣わされた」
と、その強盛な信仰を褒められたのです。

顕正会ではこの『千日尼御返事』は上記の「譬えば天月は…」の部分しか教えられませんが、その前述を知れば、「譬えば天月は…」の箇所の真の文意というのも明白となります。
即ち、
「佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に女人の御身として法華経を志しましますによりて年年に夫を御使として御訪いあり定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・其の御心をしろしめすらん」

要するに、危険な旅を承知で夫を送り出し、留守を守った老妻に対する労いの意味が込められているのであり、その様な主旨である事を前提としてこの『千日尼御返事』を拝するならば、“遥拝勤行”という事を正当化するための引文は明らかに誤りであり、顕正会の都合に合わせた文意の歪曲である事にお気づき頂けると思います。

つまり、
「大聖人様に一目お会いしたい!」という身命を惜しまない修行の姿が仏意に適うということであり、

それは正に「御登山」の精神であり、
また、「三宝」に対し奉る「御供養」の精神なのです

大御本尊様にお会いしようともせず、また供養することもせず、「遥拝で十分」などと抜かしている、仏法の中途半端な理解者が、仏様に認められる道理など断じてないのです。

日蓮正宗に帰伏して、仏様の御心に適った信心をさせて頂きましょう

『異例の認証式』についての真義

脱会者Aさんから頂いたコメントにもある様に、当時浅井会長がわざわざ総本山に呼ばれて御法主上人より認証式を受けた事をもって、顕正会に血脈が流れているという考えの根拠にしている顕正会員が少なくない事実は否めないと思います。

その理由としては、まず顕正会員が唯授一人血脈相承についての理解が乏しく、その意義について、我見で解釈している状況にあるということが言えると思います。

本来、日蓮正宗の教義信条に則って考えれば、在家の身分から御相承に関しての詮索自体が大変恐れ多いことであり、本当なら詳しく知る必要もなければ、詳しく知り得る事柄でもないように思いますが、
顕正会員は大体からしてその様な理念さえも存在しないため、御相承という事にどの様に考え向き合っていけば良いか、というところから、学ぶ必要があるのではないかと思います。

当ブログの過去記事において、日顕上人の御指南を掲載したものがありますので、参考にして頂ければと思います。
御相承に関してに日顕上人の御指南

また、この認証について、多くの顕正会員さん達の勘違いを生じてしまう大きな要因は、その当時の事が書かれた顕正会発行の「試練と忍従の歴史」という小冊子の文章構成自体に謀りが潜んでおり、真意の歪曲が行われているからだと思います。

以下、「顕正会 試練と忍従の歴史」(P15)

「しかし妙信講の切実な願いは、時の御法主上人・大六十五代日淳上人の御耳に達するところとなった。日淳上人はかねてより妙信講の信心を深く理解下されていたが、妙信講の広布の至情を嘉(よみ)せされ、ここに昭和三十三年一月十五日、宗門としては異例の講中認証が下されたのであった。(中略)さて異例の認証には、異例の儀式が行われた。通常「認証状」はただ伝送されるだけであったが、日淳上人は妙信講の首脳幹部をわざわざ本山に招かれた。そして「認証状」の授与に際して、特別にお言葉を下し給わった。」

如何にも妙信講が優秀であったがために、猊下がわざわざ本山に招いて下さったという様に、読み手としては感じ取れる様な書き方だという事がいえると思います。

しかし、事実は全く逆で、極端に言えば「問題のある組織であったがために、本山に呼び出しを食らった」といった状況であったというのが真相だったのではないかと思います。ちなみになぜその様な考えに至ったかといえば、この認証式に至るまでの経緯を知れば容易に推測する事ができるからです。

この部分の歴史、背景は櫻川さんの著された「迷走する顕正会を斬る」に詳しく書かれており、この一書は公になっている資料からの引文が多く、そういった面では非常に信憑性の高い一書であり重宝させて頂いております。

以下、断片的にはなりますが、櫻川忠さんの「迷走する顕正会を斬る」より、そのまま掲載させて頂きます。

『当時の法道院は増築を繰り返しており、特に昭和三十二年に二回目の増築計画いおいて、浅井講頭と主管の間に亀裂が生じたと、浜中和道師は指摘している。
「その頃の法道院は寺院規模も整っておらず、年々創価学会の折伏活動、自支部の折伏活動で増える一方の信者の方の収容ですら満足にできないものでした。会合にしても婚礼の控室にしても他の法要の控室も全て本堂で行わざるを得ない状態。故に主管はその充実をはかるべく増築を重ね、昭和三十二年に二回増築を計画されました。それをきっかけに浅井父子の法道院での権力拡大の策動が始まったのです。」』

と。また、

『妙信講が正式に講中の認証を得られた背景には、早瀬主管の特別な配慮があった。』

とあり、その裏付けとして、

『妙信講は法道院において、第二回総会を挙行した。(中略)妙信講再建総会(八月三日)も第二回総会(十月十九日)も法道院において開催されているのである。早瀬主管の了承なしに、会場として法道院を利用する事などはできない。主管が「面子にかけて妙信講を潰そう」としていたなら、妙信講に場所の提供など許すだろうか。竹尾氏が述べるように、早瀬主管は妙信講の行く末を心配していたのである。浜中師も「主管は、…一緒について行った人々の信心さえ離れなければと思い、日淳上人に取り為して妙縁寺への所属替えをお願いした」と述べている』

と早瀬主管の口添えがあって忝(かたじけな)く猊下様に執り行って頂いた事実が伺える事と思います。

つまり、私見での憶測になりますが…
指導教師のやり方(主に金銭面での工面)に異を唱え、随順できなかった、問題だらけの組織が、指導教師の懐の大きさと御法主上人猊下の大慈悲の御教導に助けられ、一応は一講中として認められはしたが、結果として、指導教師の恩を仇で返す様な行為であった事は事実ですし、法道会の離脱自体が単なる浅井父子の「わがまま」であった事に違いありません。

そういう意味での『異例』であったのではないかと思います。講中認証を決断された日淳上人様の心中を察することなど到底でき得ませんが、ただただ、そこに深い御慈悲を感じる次第です。

結局、浅井会長は自身を正当化するために、美化、着色を加え、歪曲し、本意を捻じ曲げ、それを読んだ会員の拡大解釈を図った、悪意の小細工だという様に思えてなりません。

浅井先生は日目上人の再誕説

これは、顕正会員にとって「定説」というか、当たり前の事で、逆に浅井先生を日目上人の再誕だと思ってない会員さんは「非顕正会員」と言っても過言ではないかもしれません。

「広宣流布の時には日目上人の再誕が出現される」という事は、別に浅井会長の己儀という事ではなくて、日蓮正宗勤行要典の御観念文にも「南無一閻浮提の御座主」とあるように、御宗門において、古くから伝えられてきております。
総本山大石寺の客殿には、私達から向かって左前に「御法主上人猊下」がお座りになられるお席があり、この猊下様専用のお席を「目師座」と御呼び致します。

大事なのは、広宣流布の達成を定義されるのは、その、「時の御法主上人猊下」以外にはおられない、という事。

そして、未来、広宣流布の達成を宣言された猊下様がそのまま「目師の再誕」という義となるわけですね。

しかし、顕正会では一体如何なる事か、現在猊座に登られ、「目師座」にお座りになられている「日如上人猊下」を無視して、「浅井先生が日目上人の再誕」という事になります。

ただし、浅井会長自身が「私が日目上人の再誕である」などとあからさまに発言した事など勿論一度もありませんね。

ではなぜ、顕正会員さんが浅井先生を日目上人の再誕だと信じているのか。

その理由を考察してみます。

一、顕正会員は、浅井会長の「あと〇年で広宣流布」といったお馴染みの断言によって、浅井会長が存命中に広宣流布が達成すると信じているため。
※その事を会員に信じさせるため、浅井会長は会員に対し、常に地震や国家破産、戦争で日本が滅びるといった終末思想の植え付けを行っている。

一、浅井会長が妙信講発足当時、日淳上人から「異例の認証」を受け、「異例の儀式」を執り行って頂いた事実を、会員が勝手に「その時、浅井先生は唯授一人の血脈相承を受けた」と錯覚しているため。

一、日目上人が朝廷や幕府に対し、諌暁(天奏)された事を浅井会長は、会員に対し「国家諌暁をされた御上人」、「国家」という単語を必要以上に強調して、繰り返し教えている。一方で、自身も「諌暁書」という本を著し、その本を政治家や官僚に一方的に送り付たり、会員には大量、無差別に配って回らせ、これを「一国諌暁」と称している。類似語である「一国」「国家」というワードを使う事によって、「浅井先生」と「目師」がダブり、会員が錯覚を起こすため。

一、「ただ、大聖人様の御眼のみを恐れ」とか「もし大聖人様ここにましませば何を命じ給うか」などとまるで大聖人様御在世の時にお傍に仕え、良く大聖人様の心中を理解していたかの如くの言い回しを繰り返し会員に擦り込み、会員の妄想を膨らませ、洗脳させているため。

等々…。
その他にも、浅井先生は日目上人の再誕という風に会員をマインドコントロールするためのワードや手口は会長の講演や顕正新聞の隅から隅へと散りばめられ、最初は純粋一途な大聖人様への信仰心だった会員さんが、いつの間にか「浅井教信者」へと変貌を遂げていくのです。

このようにして顕正会では、「化儀の改変」も「御本尊の作成」も「浅井先生は時の御法主上人だからその権能があって当然」といった、教義を正当化するための理論が成立しているのです。

浅井先生は日寛上人の再誕説

全ての会員さんが、というわけではないのでしょうが、顕正会員の中では浅井会長の事を「日寛上人の生まれ変わりなのだ」と信じて疑わない人が多くいらっしゃるのは事実ですね。

その「勘違い」の根拠となるのが、浅井会長の講演における、「自分こそ日寛上人の生まれ変わり」と暗にほのめかす様な数々の発言です。

その中でも代表的なのが、平成18年12月10日に挙行された、「群馬会館御入仏式」での浅井会長の講演です。

群馬会館

この講演の中で、浅井会長は、

「日寛上人は大聖人御在世の時と、広宣流布の時と、その中間にお生まれになる。」

と、突然この様な邪説を唱えたのです。

この時は私が顕正会員として頑張り始めた当初で、耳にたこができる程「CD」で、この講演を繰り返し聞いていた為、とても良く覚えております。

なので、
間違いありません。

しかし顕正新聞紙上では実際の講演内容とは異なる内容が掲載されておりまして、
以下の様に修正されております。

群馬日寛上人

元顕正会幹部会員さんなら御承知の事かと思いますが、浅井会長の生の講演と新聞に掲載される内容とではしばしば異なります。

まぁ、新聞の本文自体も浅井会長自身が筆を執って書いている事なのですが…。

さて、検証する事自体がもはや、「くだらない」事ですが、

勿論、日寛上人が御在世の時の何方かであり、広宣流布の時に再誕されるなどという説は、
全くの空論です。どこにもその様な説はございません

いつも根拠のない事を堂々と言い切る浅井会長ですが、これ、あらゆる邪教の教祖さんの共通点ですね。

大聖人様は、
「唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」
「文証無きは悉く是れ邪の謂い」(持妙法華問答抄)

と仰せです。

その様な説がもし本当であるというのならば、歴代先師上人の御指南や、御書、相伝書の中から、文証を示すべきですね。

そして、本当の謀りはここから始まります。

以下は、講演の終盤の内容です。

群馬 日寛上人

このアップした2つの顕正新聞の画像に書かれている内容を良く読み比べてみて下さい。

いかがでしょうか?お分かり頂けますでしょうか?

つまり、

「日寛上人は20代の頃から御書の極理をほぼお解りになっていた。」

「私(浅井会長)は(も?)20歳の前に、父親がしまっておいた日寛上人の御筆記を自身の手によって見つけ出した」

「それを読んだ浅井会長は(も?)、自然と御書の極理を知るに至り、広宣流布を進める人となった」

「私(浅井会長)は不思議に思う」

と、こういう事です。

端的に言わないところが実にいやらしいところで、後は会員さん達の「拡大解釈」に任せます。

次は「六巻抄」を使った謀りを紹介します。

以下は「昭和60年8月19日」に顕正会から発刊されたものです。

六巻抄

六巻抄前書き

「底本(原本)のなかで、明らかに誤字・脱字と思われる部分は編者が校訂を加えた」

との事です。
編者は一応は「顕正会教学部」となっていますが、実際は浅井会長その人でしょう。

「あぁ、前世に御自身で書かれたものだから出来得る事なんだ」

と、間違いなく会員さん達は思う事でしょう。

何を隠そう、私自身が顕正会員時代、その様に信じておりましたからね。

その他にも、浅井会長は良く、日寛上人は群馬の前橋でお生まれになった事を話し、また浅井会長も群馬には縁があり、南蛇井(群馬県)から親戚を便って折伏を開始した事、両毛線に乗って良く御奉公に出かけたなどと会員に語ります。
いかにも、
「日寛上人の御姿と自分の姿が重なる様に会員の意識をコントロールしているかの様」ですね。

前橋に住む私にとっては特に許せない事です

今度は、顕正会員さんにとってもう少しメジャーな「浅井先生、日目上人説」について書いてみようと思います。

『戒名』(かいみょう)の意義を偽る

顕正会では『戒名』という事の意義を非常に軽視し、近年では浅井会長の「戒名は不要」宣言により、昔の古いしきたりという事になってしまって、現代ではまるで全く意味がないかの様なイメージが会の中に遍満している状況ですね。
しかし、「御在世の信行に立ち返った」と声高に主張する顕正会こそ本当であれば、この『戒名』という事について、なかったことには出来得ない事柄だという事。そして、もっと重く捉えて、正しい意義を認識しなければならない事柄なのだという事をまずお伝えしたいと思います。

では、そもそも戒名とは何かというと、端的には、
「仏門に帰依した出家・在家の者が、授戒を受けた時に授けられる名前」の事です。

『授戒』(じゅかい)とは戒律を授ける(授かる)ことをいい、仏道修行を成就する上で守るべき規律があり、それを守る誓いの儀式の事をいいます。
この日蓮正宗伝統の儀式を真似ているのが、顕正会でいうところの『入信勤行』ですね。

そしてこの『授戒』を受けた時に授けられた名前であるから『戒名』(仏道修行における名前)というわけです。

しかし現代では一般的に戒名というと「死後与えられる名前」という考え方が定着しております。

これは時代背景の変化によるもので、その代表的な理由は、

1、生前に戒名が与えられても、法律上改名が容易でないこと。

2、世間の人に対しても馴染みにくいこと

3、信教の自由が約束された逆の効果として、退転が容易になっていること

等が挙げられます。

従って、今日の在家信徒に対する戒名授与の具体的な方法としては、生前の信仰に対する活動・活躍の度合いに従って、指導教師が相応しい戒名を各々に授与する形がとられています。
そこで日蓮正宗においては、葬儀の折に引導文を奉読する中において、俗名を改め、戒名を授与した事を導師御本尊に報告しているのであり、以後はその戒名によって塔婆供養や月々の回向がなされていくのです。
日蓮大聖人様の仏法に正しく縁した人に対しては、戒名を以て成仏を祈念していくべきであると御指南されているのであり、この作法というのは大聖人御在世以来、変わらず続いてきているのです。
戒名が与えられることによって、大聖人の仏法に正しく帰依したことが証明され、そのことを又、大聖人に御覧頂く事で、成仏の境界に導いて頂いているのです。
つまり、大聖人の弟子として導かれる「証」となるものでありますから、戒名の有る無しは、信仰上大変に意義が深いという事になります。

それから、顕正会員さん達は「御開扉」を「御開扉料稼ぎ」とか、日蓮正宗の僧侶はただの「職業坊主」とか、終いには「あれは出家(しゅっけ)しているのではない、家出(いえで)しているんだ」等と、悪意の誹謗中傷を擦り込まれていることでしょうから、きっとこの『戒名』についても誤解していることと思いますが…

日蓮正宗における戒名の意義は前述のとおりですから、そこに料金が発生するなどという事はあり得ません。

勝手な思い込みをしている顕正会員の方はこの清純潔白な日蓮正宗の化儀を正しく理解して頂きたいと思います。

最後に、顕正新聞H16/3/5号における浅井会長の痴論を掲載し、少々破折を加えさせて頂きます。

「結論から云えば、戒名などにこだわる必要はない。戒名で成仏するんではない。大事なのは、生きているときの信心だよ。」

※仮に成仏するのに必要ではないものを化儀から省くという事であるならば、顕正会館に安置されている御本尊は必要ですか?遥拝勤行で良いというのなら必要ないと思うのですが…。

「それがいつの間にか、邪宗の葬式坊主が戒名を金もうけの手段にしたんだ。
 戒名には六字戒名だ、七字戒名だ、九字戒名だといろいろあるが、うんとお金を出せば立派な戒名を付ける。こんなのは商売じゃないか。
 喪主のほうも、世間への見栄から、立派そうな戒名を付けてもらいたいからウンと全を出す。まことに下らんことです。
本宗の戒名は邪宗のそれとは違うのだろうね。」

※違うのなら、例に出す必要はないですよね?会員さんの無知をいいことに、錯覚を起こさせて悪意の植え付けをせんとする魂胆ですね。

「大聖人様が、死者に戒名を付けられたという記録があるかね。そんな事実は全くないではないか。
 大聖人様が門下の強信に授けられた法号というのは、俗にいう戒名ではない。その純粋強盛な信心を賞し賜わった、仏弟子としての名号ですよ。
 たとえば上野殿は「大行」と。たった二字です。なんとスッキリとした法号か。「○○院○○○○信士」などというものではない。たった二字だ。
あるいは父君・母君には「妙日」「妙蓮」の御名を賜わっている。
 これが御在世の仏法上の法諱(ほうい)・法号です。ケバケバしい戒名なんていうものは、御在世には全くなかった。」

※小松原法難において一死をもって大聖人を御守護し奉った強信者・工藤吉隆に対して大聖人は御自ら僧礼をもって葬儀を取り行われ、「妙隆院日玉上人」という戒名を与えられています。これ「死者に戒名を付けられた事実」ですね。
それから歪曲も甚だしいですね、「仏弟子の名号」こそ正に『戒名』というのです。

「熱原の法華講衆の頭領である神四郎殿に至っては、未だ法号も頂いてないのです。
我々も、これでいいではないか。俗名のままでいいんです
 ただし、顕正寺で住職が戒名を付けてくれる。これは大いに結構です。しかし本質において、俗名でもいいんだという見識を、顕正会員は持つべきであるということです。」

※つまり浅井会長、顕正会にとって、戒名について重々の御指南をされている「第九世、日有上人」はどうやら邪師であるという事になりそうですね。
即ち、
『化儀抄 第6条(引導回向の心構え)』
『一、仏事追善の引導の時の回向の事、私の心中有るべらず。経を読みて此の経の功用に依って、当亡者の戒名を以って無始の罪障を滅して成仏疑いなし、乃至法界平等利益(ないしほうかいびょうどうりやく)。』




『時が来ればわかる』との誤魔化しは『問答禁止』と同意義

「細井日達は急死を遂げた。大事な『御相承』も成し得なかった。(中略)御相承を成し得なかったとしても、下種仏法の血脈は断じて断絶しない。大聖人様の下種仏法はそんなチャチなものではないのです。その理由はまだ言うべき時ではない。時が来たら私はハッキリと言います」(顕正新聞H26/1/5号)

この『時が来たらわかる』との浅井会長の発言は会員さんとって非常に都合の良い文句となっており、論に詰まると必ずと言って良い程乱用する傾向が見られますね。

この文句の真意はズバリ『議論を先延ばし』にせんとする単なる『逃げ口上』でしょう。

と、同時に顕正会員さんは『自宗の教義を自ら破折してしまっている』事に気付きましょうね。

大聖人様が戒壇の大御本尊様を建立あそばされた時点で三大秘法は整足され、あらゆる思想・宗教の邪正は決したわけです。
もし御法門が部分的に欠如していたのだとすれば、どうして大聖人様が出世の御本懐を成就されたなどと仰せられましょうか。

即ち、
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其中の大難申す計りなし。先先に申すがごとし。余は二十七年なり。」(聖人御難事)
※因みに顕正会ではこの御書名を『出世本懐成就御書』と学びますが、正しい名称は『聖人御難事』です。

三大秘法は戒壇の大御本尊の一大秘宝に究竟され、翻って論ずれば戒壇の大御本尊の一大秘宝は本門の本尊・題目・戒壇の三大秘法に開かれるわけですね。

繰り返しになりますが、大聖人様が戒壇の大御本尊様を建立あそばされた時点で、あらゆる宗教の勝劣・浅深は日を見るが如くに明らかになったのです。つまり戒壇の二義、即ち、事と義においても整足された形で、令法久住のため、大聖人様はこの大法を日興上人に遺付されました。

何事も現時においては未来の事は未定、不確定であり、先の事に関してとやかく議論する事が不毛であるのは、時の性質上の理なのだと思います。
裏を返せば、仏法に限らず、時が来ればわかるのというのは、何事に関しても当てはまる道理なのではないでしょうか?

大聖人様が未来に託されたのは、一期弘法抄に明示されている様に「国主がこの法を立てた時に本門戒壇を建立せよ」との日興上人に付属された御遺命の戒壇。また、日興遺誡置文における、「広宣流布せざる間は身命を捨てて広宣流布に向かって随力弘通」ということのみであり、その弘める『法』が未完成のはずがありませんよね?

『御法門の議論を先延ばし』にする理由が一体どこにありましょうか?

これ以上、問答から逃げ続けるのならば、私から顕正会に良い提案があります。

1、三証と五綱判の宗教批判の原理が著されたページを折伏理論書から省き、教義の正統性を全く他の視点から見出す。

2、日蓮正宗の僧俗とは問答禁止。

金儲けに差し支えない程度に顕正会の教義を改変したら宜しい。
いかがでしょうか?

浅井会長は良く講演の中で「いいですか~。よ~く、みててごらんなさい」とか「私にはまだ言えない事がある」などと仰います。
その言葉を受けてか会員さん達の中では「先生は何か私達には知り得ない甚深の御法門を御知りなのだ」とか「未来広宣流布の相妙が先生にはハッキリと見えている」などと囁かれていますね。
私も顕正会時代はその1人でした。

日淳上人が日達上人ともう一人、浅井先生に御法主上人しか知り得ない金口の内容を明かされたと本気で信じている会員さんは少なくないと思います。

浅井会長の「日達上人が急死、日顕上人は法主を自ら名乗り出た」などと強調し、血脈が顕正会に流れていると言いたい真意は見え見えです。

しかし、浅井会長が自ら相承を受けたと公言するのはかなり無理がありますよね。周りの方々の証言等といった、客観的な証拠・裏付けなどあるはずがないのですから、結局、「時が来たら言う」などと誤魔化し続けるしかないわけですね。

今はまだハッキリしないのであれば、顕正会員は折伏の際、対象者に対しても「今はまだ良くわからないけれども、時が来たらわかるので、あなたもやってみませんか?」と、本当なら言わないといけないですよね?

それともまさか、学会の二番煎じに徹し、次は戒壇の大御本尊様の否定に走りますか?

『但し法門をもって邪正をただすべし』(唱法華題目抄)

 「世出世(せしゅっせ)の邪正を決断せんこと必ず公場なり(中略)速々(はやばや)天奏を経て疾(と)く疾く対面を遂げて邪見を翻(ひるがえ)し給へ。書は言を尽くさず、言は心を尽くさず。悉々(ことごとく)公場を期す。」(強仁状御返事)
時を待つ『暇』がおありなら、その時など待たずとも、急ぎ公場にて邪正を決しようではないですか。

「時ぞ~来~た~り~ぬ~♪諌暁の~♪獅子吼は国に~♪こ~だ~ませり~♪」
問いて曰く。
顕正会が獅子吼する諌暁。その内容如何。
答う。

『時が来ればわかる』

『顕正会では時が来ても、顕正会員は時が来るまで永遠に仏法の真理がわからないのであります!』

「功徳があるから正しい」というのは謀り

近年、顕正会では「難しい事はわからなくても良い、信心口唱・一念信解で良い」などと指導が徹底されており、その為教学を軽視する会員さんが増え、よって思考能力は著しく低下、結果、幸福の本質を見失い、価値・反価値の分別すらつかない、これは大変深刻な状況に陥っている様に思えます。
諸宗の破折に関しては「功徳の体験談」で十分、「邪宗は功徳がないのだから、功徳の話が即、破折となる」と説いています。一見その論理を正論の様に感じてしまう顕正会員さんには、もう一度幸福の定義を良く見直して頂きたいです。
『蔵の財より身の財、身の財より心の財』
臨時収入や一時的な病の治癒といった飴玉の様な現証が、果たして真の功徳といえるのでしょうか?


大聖人様は
『但し法門をもって邪正をただすべし、利根(賢いこと)と通力にはよるべからず』(唱法華題目抄)
と仰っております。

顕正新聞の体験発表などを閲覧していると、「まるで魔法の様に」といった表現を見かける事がありますが、その本質は読んで字の如くですね。その様な不思議な現証を「功徳」と断定する事は全くもって不適当なのです。

浅井先生は、「所詮正しい道理と文証に裏付けられぬ現証は、ごまかしに過ぎない」(理論書296)
と指導しておりますが、法華講員との法論から必死に逃げ回っている顕正会員さんの姿こそ、会の教義に「正しい道理と文証の裏付けがない」事を証明をしている、実に明瞭な「現証」ではありませんか?
 
それから、
「法に依って人に依らざれ」(釈尊 涅槃経)
「最後の御遺言に云はく『法に依って人に依らざれ』等云云。 (開目抄)
 「涅槃(ねはん)経に云はく『法に依って人に依らざれ』云云。痛ましいかな悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還(かえ)って仏法を滅す」 (三世諸仏総勘文教相廃立)

なぜ浅井先生は御書全集を発刊しなかったのか?
会員さん達に法の全てを開示してしまったら顕正会が正しくないのがバレてしまうから、偽りの功徳という事がバレてしまうからですね。
浅井先生の用いる御書はいつも同じ御書ばかり‥
御書は全部で四百余編。
「全て大事」です。
また、特に相伝書に関しては多くのものが会員さん達に秘密にされています。
都合の悪い御書や相伝書を隠す行為と、不相伝の日蓮宗が何でもかんでも偽書扱いにして自宗を正当化している謀りとが、同じ類だという事に気付いて頂きたい。
先生が指導して下さる御書だけ学べば良いというのは、法ではなく人に依っている姿ではないですか?

更に大聖人様は、
『故に弘決の八に云く「若し衆生生死を出でず仏乗を慕わずと知れば魔・是の人に於て猶親の想(おもい)を生(な)す」等云云、釈の心は人・善根を修すれども念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば魔王親のおもひをなして人間につきて其の人をもてなし供養す世間の人に実(まこと)の僧と思はせんが為なり』 (種種御振舞御書)

邪僧をさも正しい僧の様に世間の人に思わせる為に、魔がその人をもてなし、供養する。‥との仰せです。

六道が自在の天界の衆生にとっては、鬼神に化ける事も容易です。

不思議な現証から得た確信など、ごまかしに過ぎない。

ごまかしに翻弄され、盲目となっている人達に「功徳」を語る資格など断じてありません。

奉安堂は防災・防犯共に完璧です。

顕正会員は奉安堂に対して、
「地震がきたらすぐ崩れる。」
「悪意のある者が容易に戒壇の大御本尊様に近づく事ができる。」
「戒壇の大御本尊様が危険に晒されている。」
といったイメージをお持ちかと思います、私も顕正会時代はその様に理解していました。
だから何を言われても、「宗門僧侶は信心がない」という間違った固定観念が私を顕正会に縛り付けていたのです。
しかし『事実は全く違うのです

現在、戒壇の大御本尊様が如何なる状態であるのか。

まず御開扉に関しての正しい解釈は過去に記事で掲載した通りです。→“御開扉は不敬”との偽り

また、こちらは『Wikipedia』から抜粋。

『内拝(ないはい)とは、本門戒壇の大御本尊を内々に拝すること。日蓮正宗では、「御開扉」(ごかいひ)と称している。本門戒壇の大御本尊は、一般に向けて公開されているものではなく、広宣流布の暁まで厳重に守り秘蔵するものである。現在、日蓮正宗の信徒以外の者がこの建物の中に入って本門戒壇の大御本尊を内拝することはできない。内拝は、あくまでも法主の特別の許可によって行われるものと教義上は位置づけられており、信徒も内拝するには内拝券の交付が必要である。』

『須弥壇(しゅみだん)には厨子がおかれ、内部に本門戒壇の大御本尊を安置している。 須弥壇は二重の自動式の扉があり、本尊を守るために大手銀行の金庫室と同等の防災設備が整っている。 』

御住職は「日銀並みの防犯・防災設備」と仰っていました。

それから奉安堂ですが、物凄い耐震設備です
“トチロ~さん”のブログに大変良い記事がありますのでこちらを参照。
実際に奉安堂へ入ると、中にはもの凄く太い鉄柱が立っており、如何にも頑丈そうです。

ですから、顕正会が心配する様な事は、本当は全くありません。

それに元々浅井会長は地震の心配なんてしていなかったんです。

以下は、<平成10年4月15日号>

DSC_0356.jpg


これは戒壇の大御本尊様が正本堂から奉安殿に移った時の話ですが、
奉安殿の方が過去の建築物ですから、新しい奉安堂の方が耐震に優れている事は、勿論ご理解頂けると思います。

また最近行われた御影堂の大改修もしっかりと耐震対策が施されております。

以下は、日如上人猊下の御指南。

「これだけの歴史ある建築文化財を後世に残し伝えるためにも大改修を行い、さらには、将来、予想される地震に対しても早急に対策を行なっておく必要があるとの結論を得ました」(大白法 707号)

◯建築基準法に定める耐震性能の強度を確保するために地盤を叩いて締め固め、礎石を据え直して強度を高めた。
◯屋根の銅板の葺(ふ)き替え。
◯すべての部材に職人の手による繕(つくろ)いを施し、腐(ふ)朽(きゅう)箇所をなくした。

と、日蓮正宗では顕正会に言われなくても、ちゃんと地震の事を考えているので全く心配は無用なのです。

“御相承を成し得なかった”との偽り 2

御相承について平成4年8月28日に日顕上人が御講義された記録が『大日蓮』のH4年10月号に掲載されています。御相承の“儀式”に関しての基本的な考え方ということで御参考に‥


『儀式は基本的には行われる形があります。しかし、何上人から何上人の場合にはきちんとした儀式の形で行われた、したがって過去においても儀式がなければならなかったし、今後もなければならないのだというように、宗門史全体のなかからの一部の儀式が行われたところだけを基準にして相承の在り方を云々することは、相承の本質をわきまえない盲見です。
例えば、日目上人から日道上人への御相承も、いつ儀式があったという記録はないのです』(27ページ)

『たいていの場合、相承を受ける方は既に教学の基本は把握しているでありましょうから、大事な問題について、また要点だけを、特にお示しになればいいわけです。(中略)ですから儀式という形を取ったことを基準にして、それがはっきりした形でなければ権威がないというように判断することは誤りなのであります。』(28ページ)

また堀日亨上人も儀式という事について客観的、学究的立場で考えを述べられた後に、
『此は局外者の抽象的の議論である。直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜しい』(大日蓮 大正12年4月号)
と仰っています。

また御相承自体に関しては

『我見をもって考える者は、金口というからには、そこに必ず万人に判るように、授者と受者が相対したところの形がなければならない。つまり、仏様が、あるいは御先師が直接、次の方にお話しになり、それをまた、次の方が直接に聞かなければならないと考えるのです。たしかに、これが基本であります。
しかし、だからといって一器より一器への伝承は、必ずしもそうでなくてはありえないということはないのです。ところが、そうでなければ金口は成り立たないというように、自分の勝手な我見で判断する者がいるのです。
実は、そのように唯授一人の相承について、自分の拙い我見でもって推し量ろうとするところに、種々の疑問や質問が出てくる元が存するのです。』(21ページ)

と、御相承に関しては御歴代からその時に応じた、またはその状況に最適な形がとられてきたのであり、ああだから駄目、こうだからなかったなどと内容も知らない在家信徒が、一々取り上げて論ずる事ではないのです。

『実は細井管長は、貫首としての最も重大な責務である「御相承」を、急死によってなし得なかったのである。』(折伏理論書P266)と、短絡的に何の根拠もなく御相承を否定していますが、実に浅はかで幼稚な御都合主義者の難癖であるかが窺えますね

日達上人から日顕上人へのを御相承を認めてしまったら、同時に顕正会は存在意義を失う事になるわけですから、浅井会長は御相承がどのようなものか、もし知っていたとして、口が裂けても会員には教えないでしょう

“御相承を成し得なかった”との偽り

折伏理論書266ページにあるように『御相承の儀が欠けても血脈は断絶せず。』これが現在の浅井会長の主張ですね。

一番最近の講演を取り上げてみました。

以下は<顕正新聞 平成26年1月5日号>

DSC_0339 (640x480)

いつになったら“時”はくるのでしょうか?ハッキリ言える事であれば、今すぐに言ってほしいものです‥。

しかし浅井会長は過去には御相承の否定などしていなかったのです。
以下。参照。

<冨士 昭和61年11月号>

DSC_0340 (640x480)

さて、日顕上人が御相承を受けていないと‥実はこれには何の根拠もないですね

逆に当時、周りにおられた方々の証言が残っていますのでご参考に‥

以下。

“当時日達上人のお側で長年奥番を勤めていた早川検道師の証言”
「昭和53年4月頃を境としてそれ以後、日顕上人が本山へ来られた時など、日達上人は、日顕上人を対等に遇されるようご指示されていた」

“当時日達上人に随行した役僧さんの証言”
「53年4月以降、地方へご親教(法主上人が末寺で法話される)の際などにも、時間の合い間をみつけては、日達上人が、阿部師(後の日顕上人)に「花押」の書き方等をご指南されているのを拝見した。」
 
“日達上人から妙修尼さん(日顕上人の母親)へのお言葉”
「あなたの息子さんに後をやってもらうのですからね、早くよくなって下さいよ。」
 
“日達上人から野村慈尊師へのお言葉”
「妙修さんにな、あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさいと言って励ましてきたよ。」
 
“日達上人から菅野日龍御尊能化、細井珪道尊師、信者の塚本素山氏へのお言葉”
「 私のあとは、阿部教学部長にやらせようと思うから、後見を頼みますよ。」

また、私の所属寺院の御住職のおじいさんは当時宗務院の役員さんであったそうですが、日達上人御遷化の年の初めに、直接日達上人から御指南を賜る機会があったそうで、その時祖父さんに対してこう仰ったそうです。
「次の猊下は厳しいお方だからね。」
と。
またその他にも、日達上人は御生前、日顕上人への御相承の旨をほのめかす事を仰っていたと。
これは正式文書にはなっておりませんが、私自身が各末寺御住職から聞いた話です。

顕正会員の御相承に対するイメージは、「何か大々的に皆の面前にて儀式的な何かがあることが絶対」とか、「死ぬ間際に執行される」といった様な感じだと思います。私はそうでした。ちゃんと教えてもらえないのだから仕方がないのですが‥。

しかし本来、御相承とは徐々に内密にされるものであり、日達上人から日顕上人への御相承において、大体内容を知るべくもない我々在家が色々論ずる事などでき得ないのです。

御開扉は“不敬”との偽り

まず、過去に何度も浅井会長を妙信講を率いて御開扉を受けていた事は御存じかと思います。
昭和49年4月、解散処分が下るギリギリまで妙信講は登山の申請をしています。

浅井会長自身も、
「一分の信心あらん大石寺の信徒がどうして御内拝を願わぬことがあろうか。」(冨士271号)
「およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として『死ね』と云うことであります。」(冨士271号)
と過去に発言しております。
変ですね?顕正会は“一貫普遍の大精神”ではないのでしょうか?

更に先師上人も以下の様に仰せです。

『未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ』( 日寛上人『寿量品談義』 )

『先々門弟は登山して一閻浮提第一の仏様に御目に懸って、御礼を申上る筈の事で御座る。』(30世日忠上人 妙喜寺文書)

顕正会が御在世の信行に立ち返ったというのであれば、

「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」(四条金吾御返事)
との大聖人様仰せの如く、むしろはげんで登山するべきではないでしょうか。

また、“戒壇の大御本尊様を営利の具にしている”などと誹謗しておりますが、これは御開扉の際の御供養の具体的な金額まで知らない会員さんへに対するイメージの植え付けであり、大変な悪意を感じます。
実際私も顕正会時代は、「数万円程とられるのでは?」といったイメージをもっておりました。

実際聞いたらビックリします。

それに阿仏房に例をみる如く、参詣の際の御供養の精神とは所詮「信心」より起こるもの。
仮に手ぶらで大聖人様にお会いしに行くなどという者があったならば、その人正に「不信の者」、かえって“不敬”となりましょう。









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