[顕正会から日蓮正宗に移って感じた事。 ]

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広宣流布まであと5年

一昨年…
副総男子部長やK峯婦人部長などの大幹部達がこぞって会合の檀上の場にて断定的に言い切っていた、

「広宣流布まであと7年

一昨年とは2013年内の発言ということなので、つまりは2020年内に広宣流布が達成されると断言していたのです。

年が明け平成27年を迎えた今、あの時の大幹部達の発言を考えると、広宣流布までの残り年数は「あと5年」ということになります。

私が顕正会を辞める際、総補に上述の件について難詰したことがありました。総補は、

「絶対成るからさぁ!みててよ!ホント絶対だからさぁ!」

と、自身満々に私達法華講員の前で明言していました。

ところが浅井会長は男子部大会の席上で、
『5年後の2019年までに200万人達成 』
ということを新たに打ち出しました。

そうすると計算上、仮に今後順調に勧誘が進み、2018年の暮れに200万を達成したとして、そこから「2年以内」に広宣流布が達成されるということになります

もし今後再び総補会うことがあったならば、そのことを加味した上で再度難詰してみたいと思います。

しかし、恐らく総補は、
「そういう事だ。」
と言うに違いありません

現在、顕正会で盛んに言われていることは恐らく
「2019年までに国家破産」
だと思われます。

ところがこの国家破産はいつ起こるかということについて、浅井会長は過去にも明言したことがあります。
そのことについてはセロリさんが詳しく書かれているのでこちらの記事をご参考に。

普段生活を送る上で、近い将来必ず国家破産するということが念頭あったならば、貯金などする気も起きないでしょうし、仕事にも身が入らないのではないかと思います。

浅井会長の「あと何年で○○」といった類の指導を鵜呑みすると必ず将来後悔します!絶対にあてにしてはいけません!

またこういった浅井会長の口から出まかせの「予言」に、いい加減おかしいなと思われた現役顕正会員さんは、一旦組織から一歩身を引いて、付かず離れずの状態で、冷静に顕正会を客観視してみるのも良いかもしれません。

そして是非日蓮正宗の末寺を訪れて御僧侶のお話に耳を傾けて頂きたいと思います。

もし「御僧侶と会っただけで罰がある」なんていうつまらない観念に囚われて行動を起せないのであれば、あなたはまだ「マインドコントロール」されている状態にあることを深く認識するべきだと思います。
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顕正会から日蓮正宗に移って1年

顕正会から日蓮正宗に移って早1年が経過しました。一体どのような変化があったか振り返ってみたいと思います。

【職場への遅刻がなくなった】

顕正会時代。私は恥ずかしながら遅刻の常習犯でした。特に前職では朝が早い仕事ということもあり、朝数分の遅れはしょっちゅうでした当然の如く信用を失い、職場では常に疎外感を感じておりました。現在の仕事においても、週に一度は朝礼に遅れたり、ギリギリの駆け込み出社がほとんど。やはりそのことが原因で信用を失っておりました。
起きようと思っても起きられないのです。意志薄弱なのです。中学くらいからの悪い癖であり、社会人として終わってます。
本当に本当にお恥ずかしいことです。
そのことは顕正会の本尊にいくら祈っても決して成就することはありませんでした。

ところが現在、職場に遅刻することはありません。
相変わらず朝は弱い体質であること自体に劇的な変化はありませんが、朝礼に間に合わないということはまずなくなりました。必ずしも毎日ではないにしろ、朝起きてコーヒーを飲み、勤行をあげ、時には通勤途中コンビニへ寄ったりするゆとりが持てるようになりました。
転換期はというと大体今年の3月頃でしょうか。

・御本尊様が家に安置されるようになって、毎朝「御給仕」をするようになったこと。
・また毎日「唱題行」の実践を継続的に行ったこと。

顧みると、この2つを意欲的に取り組むようになったことが思い返されます。
朝、御本尊様に水をお供えすることが習慣的に身についてくると、ベットの中でそのことが頭をよぎるようになり、まるで「御本尊様に起される」かのように目覚めることが度々あります。
唱題行に関しては現在は毎日は行っておりませんが、樋田さんの動画を拝聴し、「変わるにはこれしかない!」と感銘を受け思い立ったが吉日、御住職様に御作法を確認の上、職場から帰宅後「夕飯前」に夕勤行と約1時間の唱題をひたすら行いました。
私はブルーカラー労働者の割には体力のない方なので、毎日帰宅後にこれをこなすのは、相当なパワーが必要でしたが、その頃から徐々に「今までとは違う目覚め方」を体感するようになりました。
今でも、前夜の就寝時間に関係なく、気が緩むとついつい数分寝過ごしてしまうことがあります。やはりそういう時は、信仰の行体の緩みがちであり、こういったてき面な現証は信仰の上で、行体の見直し、軌道修正の絶好の機会です。

とはいえ職場に朝遅れなくなったことは事実で、このことは正宗に移籍してより、生活上に目に見えて表れてきた果報の一端だと思います。

読み方も顕正会流

「お大会式」ではなく、正しくは「大会式」です。
因みに通常、末寺で行われるものは「お会式」と呼ばれます。

「お観念文」ではなく、正しくは「観念文」です。

「日寛上人」は「にっかんしょうにん」ではなく、正しくは「にちかんしょうにん」です。

日曜勤行で浅井会長導師の時、「日霑上人」の御事を「にってんしょうにん」ってふうに聞こえますが、「にってんしょうにん」なら、御歴代の中の第20世に「日典上人」って御方がちゃんといらっしゃいます。

御作法も皆自己流

顕正会員時代を顧みると、会員の皆がそれぞれ自己流の御作法であったということが思い返されます。
身口意の三業がバラバラであるのは、顕正会の「異体同心」とは単なる掛け声のみで、実態が伴わない現実を如実に表しているのではないでしょうか。

まずは合掌の位置。

基本的に合掌は「口の前」が多いと思います。会長先生がそうですから、顕正会ではこのスタイルが通例でしょう。
しかし、会館で勤行していると、中には頭上までいっちゃってる人を見かけます。
と、思いきや本部会館で、総男子部長がおへその前当りで合掌しているのを見かけました。たまたまでしょうか?

次にお題目。

K峰理事が「なんみょう~ほ~うれ~んげ~きょ~ぃ
って言ってます。本当です。本部で早朝勤行に参加したり、日曜勤行での声を良く聞いているとわかります。
それから頭の「南無」、特に「南」の部分にアクセントをおく人と、そうでない人に分かれます。

次に一斉勤行の際、御観念文の時の姿勢について。

これは正宗信徒さんでも礼の深さは人によって微妙に異なりますが、その人の体系などの要素が絡むので、多少の違いは許容範囲内かと思われます。
しかし顕正会の礼はほとんどが皆、すごく深いです。
頭よりお尻の位置の方が高い人が結構います。
おでこも畳についてる人までいます。そういう人は大概寝てます。
勤行終了後、真っ赤なおでこに畳を痕がついちゃってます。

最後に極め付けは意味不明な「ご挨拶」

ビデオ放映や会合の前にお題目をゆっくり三唱、礼、を二回繰り返す。
個人的な勤行の際には、始めと終わりにそれを素早く行う。
顕正会の中にいると古くから行われてきたごく当たり前のことだと思われがちでしょう…
実際昔がどうだったかというのは良くわかりませんが、現在日蓮正宗ではお題目三唱、一礼は一回のみです。
これが浅井先生verだと、二回繰り返した後、小声で「南無日蓮大聖人」とつぶやきます。
これに倣って会員もつぶやく人が多いですが、全員が全員そうなのかと思いきや、これもまた十人十色。
つぶやかない人もいれば、「南無日蓮大聖人」の後、更に小声で「南無妙法蓮華経」とささやく人もいるし、
奇異な例を挙げれば「南無日蓮大聖人南無日興上人南無日目上人南無日寛聖人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経…」
と、ささやきが妙に長い人。
十回くらい素早く礼をする人。(すごく大変そう)
一回礼をするのに一分くらいかかっちゃう人。(先輩がそうでした)

知る人に言わせれば、日蓮正宗でも御僧侶によっては数珠のかけ方やリンの回数が若干違うではないかとつっこまれそうですが、これは日達上人が「年分得度制」を定める以前の「末寺得度制」の名残が若干残っているためだと思われます。

しかし方々はあくまで師に倣って現在の御作法が染みついているわけで、顕正会員は多くの場合、自らが考案した独自のものだと思われます。

師匠である浅井会長自身が勝手に御観念文を自己流に変えてしまうような人ですから、『師は針・弟子は糸の如く』ということでしょう。
なんでもアリといった有様です。

顕正会の「折伏」について思うこと

折伏というのは「布教」するための方法の一つであって、別に「摂受」という方法も存在しますね。

顕正会折伏理論書からそのことについて書かれている箇所を引用します。

「仏法を弘める方法に摂受(しょうじゅ)と折伏という二大潮流がある。摂受とは摂引容受(しょういんようじゅ)といって、たとえ相手が低劣なる法を信じていても、これを容認しながら次第に正しい教えに誘引していくという柔かい弘教法である。いっぽう折伏とは、破折屈服の義で、相手の間違った思想・信仰を破折し、唯一の正法に帰依せしめるという剛い弘教法である。」(P76)

私はこの説明について特に異論があるというわけではありません。

問題にしたいのは、顕正会員が実際に行っている弘教法は、上掲の「折伏」の説明とは随分違った印象を受けるということです。

顕正会では折伏のことを「功徳の讃嘆行」と言いますが、とにかくご利益の凄さを語りまくることで対象者の入会を促すことを骨子とします。

「御本尊の功徳(ご利益)の凄さ」や、「日蓮大聖人の尊い御振舞(竜の口等)」については「ご利益」を語る上での裏付けとして後から説明されるパターンが多く、場合によっては省かれてしまうのではないでしょうか。

もし対象者が何か他の信仰をしていたとしても、まずは「入信勤行」が優先されるので、そんなことはお構いなしといった具合に会館や自宅拠点へとにかく引っ張っていくことを第一に考えます。

結局彼らは、対象者が「入信勤行」、いや、「入信報告書に個人情報を記入」してくれさえすればそれで良いのです。

ご利益話や、仏法の話は「釣り」であり、「一名」に繋げるための手段くらいにしか考えていない会員さんも少なくないのではないかといった印象です。

そして無事に入会させることのできた新規会員には、まず仏法の話に歓喜を起させた後に、「試練と忍従の歴史や、誑惑 ( おうわく ) の正本堂崩壊す、御遺命守護の戦い」等を通して、「浅井先生絶対」という信条の植え付けが徐々に繰り返し行われていきます。

そのように教育された会員は、最終的に「御本尊」よりも「浅井先生」を信じる、といった「浅井先生信仰」へと変化をとげていくのです。

この「浅井先生信仰」の解り易い例として、幹部会員の発言を具体的にあげれば、

「浅井先生が用意して下さった御本尊だから疑うことはしない」
「私は日蓮大聖人の仏法ではなく浅井教を信じていきます」
「浅井先生の御発言に諸天が感応する」

これらは私が直接幹部会員の口から聞いた言葉です。

「もし浅井先生が間違っていたとしても、浅井先生についていく」

又聞きですが、これも幹部会員が吐いた言葉。

これらの発言を、彼らの入会の時点に遡って考えてみると、明らかに「帰依の対象」が異なっている、すり替えられてしまっているということが言えます。

浅井先生は絶対に間違わない。客観的に見て浅井先生の言動が明らかにおかしかったとしても、会の中では常に正当化されてしまう。「神格化」とはこのことでしょう。

これこそ顕正会が真の目的とするところであり、誘引したい最終地点なのです。

つまり顕正会の教義信条における「正しい教え」とは即「浅井先生の御指導」であり、御書だろうが、先師上人の御指南であろうが、「浅井先生が取り上げないもの」に関しては、短絡的に「正しい教え」ではないと判断しているのです。

まるで「浅井先生絶対」に到達するまでの一連の流れ、プロセスは「方便」であるかの如くですね。

以上。勧誘の時点から、「顕正会での真実」へ誘引するまでの流れを、先程の二種の弘教法に照らして考えてみると‥。

「折伏」というよりも、少々強引ですがどちらかといえば「摂受」といった方がしっくりくるような気がします。

もっとも「柔かい」かどうかは分かりませんが‥。

また、これも経験談ですが、私がまだ顕正会員であった頃、同じ職場のブラジル人の方が他の顕正会員の方の折伏(勧誘)によって入会させられたという出来事がありました。

なぜそれが分かったのかというと、そのブラジル人の方は自分の作業台の上に顕正会の勤行要典を置いていたからです。
私が同じ顕正会員であることを伝えるとそのブラジル人の方は、「私キリスト教信じてる。どうしたらいい?」と聞いてきたのです。
そんな基本的なことも教えないまま入会させたのかと、紹介者を大変不審に感じました。

紹介者の役職は班長であり、その場には副長もついていたとの事でした。

全ての会員がというわけではないでしょうが、顕正会では弘教法を「折伏」と称しつつ、たとえ相手が低劣なる法を信じていても、ひとまずこれを容認するということが行われていることは事実です。

「正しい道理」で相手の間違った思想や信仰を破折する。そういった弘教法を「折伏」というわけですが、だいたい非社会的な思想かつ、伝統的教義信条から逸脱した新興宗教団体の人が「正しい道理」を説けるはずがありませんね。

顕正会で行っている布教の方法が、「折伏」であるとは到底言い難いのではないかと思います。

法戦って

顕正会の言う「ホーセン(法戦)」って、なんだか「フーセン(風船)」の様ですね。

数字が増えるから、膨らんでいるように見えるけど、中はただの「空気」。
実際は中身の無いただの「空気」です。

終わってはじけてしまえば何も残らない。
大きくなったように見えて、本当は空っぽだったのです。

膨らましている方は大変です。
酸欠になって頭がクラクラ。
思考停止です。

膨らますのに精一杯で、生活や周りのことに目を配る余裕などありません。

指示している人はというと、大きくなった風船を見て悦に入っているだけ。

9・10・11月フーセンも残りわずかといったところですね。

精々また過去最高のフーセンでも膨らませて、先生を喜ばせて下さい。

「如説修行」の三義

先日奉修された、十月度の御報恩御講にて御住職様より「如説修行」についての講話を賜りました。

この「如説修行」という言葉ですが、顕正会でも多用しますよね。私も顕正会時代には良く耳にしました。
例えば、「無二の師匠浅井先生の下、如説修行が叶う有難さ」といったように、登壇の文中に良く登場したりします。

しかし、その意味について、果たして浅井先生から明確な御指導があったでしょうか。

私の記憶ではなかったと思います。

実はこの「如説修行」という言葉は法華経の中に「9回」も登場するそうです。その回数の多さに驚きです。
まぁそもそも顕正会ではこの「如説修行」の意味に限らず、どの仏法用語についても詳しく教えてくれませんよね

なんとなくニュアンス的に使っている用語が多いような気がしますが、世間のそこらの言葉とは違って、仏法の上で使われる用語には必ず甚深の意味合いが具わっています。
一つ一つの意味をしっかりと理解するところに新鮮な感激があるし、そういったものの積み重ねこそが信仰の礎となるのではないでしょうか?

今回の御講で御住職様が題材にされた御書は「如説修行抄」でした。

「如説修行の法華経の行者には三類の強敵の杖定んで有るべしと知り給へ。されば釈尊御入滅の後二千余年が間に、如説修行の行人は釈尊・天台・伝教の三人はさてをきぬ。末法に入っては日蓮並びに弟子檀那等是なり。我等を如説修行の者といはずば、釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず。」

※参考
「如」…その通りである事、同じ
「説」…仏が説いた教えや経典
「修」…習う、人格を整える
「行」…身に行う事

読んで字の如く、「仏様の説かれた教えの通りに仏法を実践する」といった様な意味合いだろう、というところまでは凡そ殆どの人が察しがつくのではないかと思います。
しかし「教えの通り」とは具体的に、どのような行体のことを指すのでしょうか?
そこを明確にしなければ、「如説修行」の具体的な方途が見えてきません。つまり実践的ではないのです。

そのことについて日寛上人が『如説修行抄筆記』というものを著し、この「如説修行」ということについて3つの義に開いて解り易く御指南されています。

○如説修行の三義

「人法相対」…<法に随順する>
如説は法に約し、修行は人に約す

「師弟相対」…<師匠の教えの通りに実践する>
如説とは師説なり。修行とは弟子に約す

「自行化他」…<自行と化他行を両立する>
如説とは化他なり。修行とは自行なり

以上。これらが三つの義となります。
ちなみに「相対」には「向かい合う」「関係性をもつ」といった意味合いがあります。

顕正会員はこの日寛上人の御指南に則って「如説修行」ができているのでしょうか?

細かく解析して書くと大変長くなってしまうので今回は「師弟相対」の「如説とは師説なり」というところのみに絞って考えてみたいと思います。

「師匠の教えの通りに実践する」ということは顕正会員は宗門信徒以上に強調する傾向があるかもしれません。

登壇の言葉尻には「無二の師匠浅井先生に必ずやお応えして参る決意であります」という文言が必ず入りますし、他の場面でも、「先生のお心」とか「先生仰せと通りに」とか、頻繁に耳にします。
顕正会員はとにかく、「浅井先生のお心に適った信心」を常に心がける意識においては、ある意味必要以上に強いと思います。

それ自体は素晴らしいことです。

しかし、ここで顕正会員に考えてもらいたいのは、自分自身のことではありません。

「浅井先生自身が如説修行できているのかどうか?」
ということなのです。

浅井先生の師匠とは一体何方なのでしょうか?
中島円妙院日彰上人でしょうか?松本日仁能化でしょうか?
しかしこれらの方々はとうに遷化されてしまいました。
今現在において、師とは何方か?ということですから、そうするとこのお二人の方々ではありません。

では、大聖人様でしょうか?
顕正会員に質問するとしたら、この回答が一番多そうですね
700年以上前に御入滅されているのだから、単純に考えてもまず物理的に不可能でしょう。

幸福の科学では「霊言」というものを説いて、その「霊言」が教祖とリンクして、「霊言」の意志が教祖を媒体として、皆に伝えるという教義があるそうですが、(実際に大川劉邦さんが、現在日蓮大聖人の霊言とリンクしていると主張してインタビューを受けている動画がありますが)、顕正会もそのような教義を立てているというわけではありませんよね。

根拠は、「教えに忠実だから」とか「御遺命を護ったから」なんて言いそうです。

また、「浅井先生は常住此説法の大聖人様の声を信心の耳で聞き奉っている」とも言うのでしょうが、ここでは、「今現在、生身の師匠がいるかいないか」という事を争点にお話をしているので、これらは全て論点のズレた頓珍漢な回答です。

つまり、「浅井先生には師匠がいません!」
ということは「師説」を受けることもなければ、何方かの「弟子」ということでもありません。
「浅井先生の中の空想の大聖人様を師と仰ぎ、弟子であるという妄想にふけっているだけに過ぎないのです。」


日蓮正宗では歴代先師上人を初め、全ての僧俗が必ず何方かを師匠と定めて、仏法を実践してきた歴史的事実があります。

例えば、日寛上人の師は日精上人です。
昔には末寺得度制に則した師弟関係の定めがあり、年分得度制の現在において、御僧侶方は皆御法主上人の直弟子となります。
在家信徒も皆ことごとく、それぞれの菩提寺の御住職を師と定め、師弟相対した信行に努めるのです。

師である浅井先生その人が如説修行の実践者でないということは、「師は針の如く、弟子は糸の如し」ですから、浅井先生を師とする顕正会員も総じて「如説修行ができていない」ことになります。

「如説修行」を日寛上人の御指南の通りに実践したいと願う顕正会員さんには、一刻も早く日蓮正宗に帰伏されることをおすすめします。

異体同心について

先日の広布推進会にて無事に登壇発表を終えることができました。
今回の推進会では、ある御尊師の御説法が私にとって強烈に印象に残りました。

その御説法の内容とは、

「異体同心は実践の中のみにあるのであって決して掛け声ではない」
ということでした。

御命題を成就するためには何よりも「異体同心」が肝心・要であるということは言わずと知れたことですが、私の浅い経験の中で実感していることは、まず信徒同士で信心について語り合うだけで果たして異体同心できたのかといえば、基本的にはできなかったと思います。
では、相手は実は表面上立ち回っているだけで、心底に折伏の精神がなかったからかな?または逆パターンで自分自身が臆病風に吹かれているのかななんて思ったりもしますが、実際にはそのことが原因ではない場合も多々ありました。

しかし、一度「異体同心」で強くリンクし合った者同士は、その後、強い絆で繋がり続け、その絆は一度切れたように見えたとしても、そう簡単には切れません。

顕正会は邪教です。だから折伏・結果成果の誤魔化しや人間関係のもつれなど多くの問題が発生しているのは紛れもない現証だと思いますが、それは同体異心の報いという事でもあるのであって、会員の心がバラバラな証拠だと思います。

しかし組織の細部に目を向ければ、例えば支隊・班などで心を一つにして、折伏(勧誘)誓願に向かって団結している組織もあるのは事実です。

私は顕正会時代には先輩Oさんと何十件も供に折伏(勧誘)に当たりました。
しばしば数百キロ離れた遠方にも出かけました。
今となっては本当に良い思い出であると同時に、良い経験とも捉えております。
あの時経験した「異体同心」は本当に気持ちの良いものでした。

または、私がもし信心をしていなかったら、正直絶対に関わりたくないような人も組織の中にいました。
ある日支隊長の計らいでもって、私の折伏の応援にその人がくる事になりました。
合流して対象者を待つ間は、「大丈夫かよ、この人‥」と不安だらけでしたが、いざ折伏となると一生懸命仏法を語る姿に尊敬の念が湧きました。
終わってみると彼に対する変なイメージは払拭されて、戦う同志の絆が残っておりました。

信心の語り合いも時には大事だと思います。しかし具体的な日時を決めたり、詳細な打ち合わせがない限り、多くの場合は結局、不毛に終わってしまうのだと思います。
「あぁ今日はいい語り合いができた」と思って帰っても、そんなのは何かマイナスな外的要因によってすぐしぼんでしまいます。
やっぱり掛け声や決意を述べるだけではダメです。

そう考えると「異体同心」は「結果」ではないかと思います。

御命題成就のための異体同心というと、まずは異体同心が先決というような念にとらわれてしまうような気がしますが、そう思って色々努力してみてもきっとなかなか上手くいきません。

だから猊下様の仰るように、折伏ができない人を先輩が一緒に折伏に連れていく、というのは育成の手段としてとても合理的だと思います。

折伏という実践をして得られた結果が「異体同心」であって、「異体同心」してから折伏に出かけるのではないのだなぁ、と思いました。

奉安堂は安普請ではありません

「奉安堂」とは「戒壇の大御本尊様」をお護りしている建物の事です。
浅井会長はこの奉安堂に対して、「突貫工事で造った安普請(やすぶしん)」と批判し、「大地震に備え、もっと堅牢な建物にお遷しするべきだ」との主張を「建白書」に著し、それを現御法主上人である日如上人に送り付けましたね。

奉安堂の写真はウェブで検索をかければ確認する事ができますが、どの写真も、大概はどのくらい大きな建物なのか比較・対象する何かが一緒に映っていないと思いますので、実際のサイズがイマイチピンとこないかもしれません。

下の写真は私が直接、スマホのカメラで撮影したものです。

20140818100051.jpg

遠くからの撮影で少々見づらいかもしれませんが‥(スマホや携帯で閲覧されている方すみませんm(__)m)、歩いている人間と比較すると、鉄柱の太さや扉の重量感などがお解り頂けると思います。

問題の耐震強度についてですが、地上部では鉄骨造のラーメン構造(一部CFT柱)、地下部では鉄骨鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)の耐震壁付きラーメン構造、そして制震部材では難燃性のシリコン系充填材を用いた制震ダンパーとなっており、一応「震度七」まで耐えうる構造で設計されているそうです。

浅井会長がいくら背伸びをしたところで、恐らく今の顕正会ではこの奉安堂以上の堅牢な建造物を造る財力はないはずです。

もし仮に日如上人猊下が、あの建白書を受けて「では、顕正会で建ててみよ!」となっていたならば、その時浅井会長はどうしていたでしょうね。
富裕層の少ない顕正会で御供養金を募ったところで、きっと大した金額は集まらないでしょう。

実際に顕正会の会館なんて‥
と、これ以上は話の裏がとれていないのでやめておきます(-_-;)

日蓮正宗の御僧侶について

一昨日、菩提寺にてお経日法要に参加後、御住職様に色々と個人的な質問をさせて頂きました。
現在、私は日顕上人が教学部長の砌に著された、「本門事の戒壇の本義」と「国立戒壇論の誤りについて」をノロノロと読み進めておりますが、(内容が難しいので…)その中で読み方のわからない漢字が沢山出てきたので、聞いてみたのです。

「黎明」
「茲」
「蓋し」
「上梓」
「(木へん)婁至比丘」
「濫觴」
「楊柳」
「僧伽跋摩」
「熾盛」
「扮州」
「畢生」
「駁した」
「範疇」
「容喙」

読者の皆様はわかりますか?
私は恥ずかしながらこれらの漢字は読み方にしろ意味にしろ、さっぱりわかりませんでした

読み方の正解は

「れいめい」
「ここ」
「けだし」
「じょうし」
「ろうしびく」
「らんしょう」
「ようりゅう」
「そうぎゃばつま」
「しじょう」
「ふんしゅう」
「ひっせい」
「ばくした」
「はんちゅう」
「ようかい」

です。
これらの漢字の読み方と意味を御住職様は即座にお答えになられました。

また御本尊様の御相妙についてもお聞きしました。
御本尊様を拝すると四隅の位置に四大天王が書かれておりますが、持国天と広目天、それから毘沙門天と増長天の間に書かれているのは何なのか、気になったのでお聞きしたのです。

答えは右には「不動明王」左には「愛染明王」がそれぞれサンスクリット語で書かれている。とのことでした。

その他にも、日本史の話や創価学会の話など色々して下さいました。

勿論、御住職様に個人的に質問をするのは今回が初めてではありません。
いつも質問を溜めておき、様子を窺って、御住職様がフリーであればすかさず質問

いつも明瞭に答えて下さり、後には清々しい気持ちになります。

しかし、顕正会時代はそうはいきませんでした。(当たり前ですが‥)
質問をしても上長は真面目に答えません。答えられません。

知りたいという気持ちは抑えられませんし、抑えるのも変です。末法は無戒であり、素直な気持ちを無理矢理抑制してしまったならば難行苦行となってしまいます。

浅井会長は日蓮正宗の御僧侶の事をぼろ糞言います。
やれ「無道心の輩」とか、やれ「職業坊主」とか、やれ「堕落している」とか、それは酷いものです。
大体、職業坊主ってなんなんでしょう。お坊さんは皆職業であるのは当然ではないですか。
顕正会にも理事室や儀礼室等の本部職員さんがいるし、それらの方々のお給料の出所は顕正会員の「真心の御供養金」です。

御住職様は本当に沢山の事を知ってらっしゃいます。お塔婆を書くので字もお上手です。
このような学識高き御僧侶を誹謗中傷する浅井会長とは一体何様なのか、と思ってしまいます。
会員の無知をいいことに宗門僧侶の悪いイメージを植え付けるのは、ひとえに「個人的な好き嫌いの感情」と「顕正会員が宗門に流れるのを防ぐ」ためです。そのための「誹謗中傷」なのです。

「誹謗中傷」とは「根拠のない事実無根の悪口」です。「でたらめ」なのです。批判とは違うのです。

日顕上人と調べてみると、なんと日顕上人は6才で出家得度されているのです。
現在の制度では早くて12才から出家得度が許されているそうですが、それでもすごいことだと思います。
世間でも「英才教育」というものがあります。それを受けた人はやがてその道のプロになります。しかしながらそれらの人は基本的には親と離れる事はないでしょう。自らの意思で出家の道を選び、厳しい世界で信心を鍛え抜かれた御僧侶に向かって口が裂けても「無道心の輩」なんていってはダメです。

ましてや教学絶倫の日顕上人に対して「法主の皮を着たる畜生」なんて、身の程知らずにも程があります。

三宝一体であるが故に御住職「様」なのです。
御法主上人猊下のお代理です。

お寺は御住職様の個人的資産ではありません。御住職様に「いて頂く」のです。

会長の誹謗中傷に賛同して宗門僧侶に「堕落」のレッテルを貼っている顕正会員さんはかわいそうというより「愚か」です。

宗門末寺の門を一日でも早く叩く日がくることを切実に願います。

【相手への怨嫉(おんしつ)を乗り越えるには】

「お願いします!」はこちらのセリフでした

顕正会では会合後の打合せや電話報告の度、必ず最後に上長の方から
「では、しっかりお願いします!」
とか
「っという事でお願いします!」
と言うのが決まり文句になっていますね。
言わないと、締まらないのでしょうかね?

疑問なのは
「一体何をお願いされるのか?」
という事…

大願は一生成仏と広宣流布。
一生成仏は自身が自ら求めて、能動的に信心活動し、積功累徳していく中に、得られる究極の果報。
広宣流布は仏様の大悲願力による「御本仏の御化導」です。

顕正会の上長さん達に頼まれる事は何もありません。
頼まれても、お願いされても、信仰心は芽生えません。
上長さん達もお願いする対象は後輩にではなく仏様に対して、のはずです。
仏様に私たちの心を合わせていく修行であって、上長さん達は仏様ではありません。

浅井会長も仏様ではありません…

上長さん達がお願いしたいのは「数の獲得」です。
自分の組織が「他の組織から見て沢山証拠を頂いているすごい組織」「先生に認めてもらえる」
との私欲・名利の言葉です。「悦」の欲です。

本当にお願いしたいとしたら、それはむしろこちらの方からです。
「後輩を教導する力」「礼節を弁えた振舞」「尊敬に値する求道心」
しかし在家のおじさんやおばさんにこちらが求めているものは生憎持ち合わせていなかったのです。
だから私は、これらの徳をお持ちの「日蓮正宗の御僧侶」の元へ移りました。

まともな仏道修行がしたい。

考えるのは、「臨終の事」「後生の事」です。

中身のない、目先の頼まれ事をこなす事で一杯一杯になって、本質を見失ってはいけません。

顕正会員は御戒壇様を『恋慕渇仰』して苦しくないのだろうか?

顕正会では戒壇の大御本尊様を、「恋慕渇仰」する信心を教え、この恋する人に会いたい!と思う気持ちを「遥拝勤行」に際しての心構えとして指導していますが、そう想えば想うほど、会員さん達は皆本当は苦しいのでしょうね。

恋する人に会いたい!との思いで毎日勤行しなければならないのに、実際には戒壇の大御本尊様に会えないのですからね

いつも恋する人をただ「想像」しているだけですし、大体会ったことも見たこともないのに「恋」しなければならないのですから、これは凄く難しい事だと思います

好きな気持ちがあれば「会いに行きたい!」と思うのは、人間として素直な心情です。

しかし、「会いに行かない事が信心」と教えられてしまっては、普通に考えれば心の行き場がなく苦しいのは当然です。

顕正会館へ行っても安置されているのは「御形木」ですから、これは複製であり、敢えて言えば恋する人の「写真や似顔絵」のようなイメージでしょうか?

結局、功徳を生ずる根本の尊体ではないのです。

顕正会員さん‥

戒壇の大御本尊様はいつでも貴方達が来るのをお待ちあそばされています。

浅井会長の宗門を憎む心から生まれた「顕正会」という呪縛から早く抜け出して、一緒に大御本尊様の下へ参詣に行きましょう

現役顕正会員の方はご相談お待ちしてます。
管理人「ミミ」への連絡先は→こちらから。

富士門流から発生した異流義団体の特徴

日蓮正宗入門(P222~223)より。

三鳥派(さんちょうは)

三鳥派は、江戸時代初期の寛永年間(1630年代)に三鳥日秀(にっしゅう)が起こした異流義の一派です。日秀ははじめ、江戸常在寺において第十七世日精上人に帰伏し、数年の間は随順していましたが、後に大石寺の法義に違背して異流義を主張するようになりました。
日秀の没後、三鳥派の一潮日浮(いっちょうにっぷ)は、自己を日蓮大聖人に匹敵させるのみならず、さらには大聖人を超克しようとし、自らを無辺行菩薩の再誕と名のりました。このように日浮は、荒唐無稽(こうとうむけい)の新義を創出して人々を惑わし、また本尊まがいのものを書いて授与し、多額の金銭を貪り取るなどの悪行を重ねました。
この三鳥派は、「妙法」の二字を唱えることが、宗祖の教えであると主張し、独特の呼吸法と神秘的な利益を売り物にして、江戸後期には一時的に隆盛しましたが、瀑布により禁制の不受不施派(ふじゅふせは)と同様であるとされ、中心者らは死罪等の刑に処されて江戸末期には壊滅しました。

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堅樹派(けんじゅは)

「堅樹派」は、江戸時代後期の明和九年(1772)、堅樹日好(にちこう)が起こした異流義の一派です。日好は本迹一致の身延門流から大石寺に帰伏しましたが、まもなく大石寺批判を重ねるようになり、離反して異流義を唱えはじめました。
日好は「大石寺は大聖人の正統ではあるが、折伏をしないから法水が濁っている」と大石寺を誹謗して「我こそは大聖人・日興上人の正統である」と自賛し、さらに「御本尊は折伏を行ずる者の胸中にある」などの邪義を立てて、強引に布教を行いました。しかし、このような布教が幕府の取り締まりの対象となり、主導者であった日好は投獄されたうえ、はじめは三宅島に流され、次いで利島に流されて在島三十八年の後、文化(ぶんか)九年(1812)に罪人のまま七十四歳で寂しました。
その後、門下の臨導日報(りんどうにっぽう)が日好の義を受け継いで大石寺批判を続けたため、第五十二世日でん上人は『異流義摧破抄(いりゅぎさいはしょう)』を著して破折されました。しかし、自説に固執する日報が『聖語明鏡顕魔論(せいごみょうきょうけんまろん)』をもって反抗してきたため、日でん上人は『叱狗抄(しっくしょう)』を送って再度強く破折されました。
日報は、その後も大石寺を誹謗し続け、臨終には悪相を現じて非業の最期を遂げています。
この日報の臨終の姿から、その信仰に疑いをもった弟子・佐野広謙(こうけん)(妙寿日成尼)・富士本智境(ふじもとちきょう)日奘(にっそう)が、明治七年(1874)に日でん上人のもとに帰依し、強力な折伏を展開したことにより、堅樹派に感化されていた人々も、徐々に大石寺に帰伏するようになりました。
このようにして堅樹派は、日好から百数十年を経た明治中頃にその流れを止めました。

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三鳥派においては、
「本尊まがいのものを書いて授与」
「神秘的な利益を売り物に」

堅樹派においては、
「大石寺は大聖人の正統ではあるが、折伏をしないから法水が濁っていると大石寺を誹謗して、我こそは大聖人・日興上人の正統であると自賛」
「御本尊は折伏を行ずる者の胸中にあるなどの邪義を立て」
「強引に布教」

異流義の特徴というのは今も昔も似たり寄ったりなんですね~

しかし『魔』としての使命を果たし終えた後には、あっけなく消えてゆくものなんですね

顕正会員よ!護法心を取り戻せ!浅井先生の『試練と忍従の歴史』に学ぶ その2

顕正会試練と忍従の歴史(P17)

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“妙信講の目的はただ一つ”

講演・青年部会(34年7月19日)

『妙信講は再建以来、一万世帯を目標に戦っております。妙信講の進軍の目的は唯一つ、大聖人様が七百年前に日興上人に御遺命された、本門戒壇建立ということだけであります。……唯、その一念を以て講中進軍の認証を御法主上人猊下より頂いたわけであります。
(中略)
十年というと長い気がするがあせっては駄目です。十年の歳月は要するに人材を鍛え上げる養成の時期なのです。態勢のととのわぬうちにあまり早く数だけ達成しては、かえってその時に困る、行詰って本当の力ある御奉公が出来ないからです。
青年部の皆さんがだんだん育って、強盛な信心を土台として、御書を心肝に染め、人間的にも成長し、社会的にも力をもつ、そういう人材が多くでてこなければその後の戦さは出来ない。
だから十年という貴重な年月を頂き、ジックリと勉強して行くのです。若い時に地味な勉強をせぬ者に、将来の大成があるはずがない。』(顕正新聞34・8・5日号)

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大変素晴らしい内容の指導だと思います。
しかし今の顕正会幹部の方々ときたら、この原点ともいえる先生の大精神を忘れてしまった様に思えてなりません。

短い期間で数だけ達成しても意味がないのです。
今の顕正会の人材組織の現状から鑑みるに、いかに無理のある折伏誓願を立てていることでしょう…。活動者本人達が一番身に染みて分かっているはずです。
その場しのぎにニセの入信報告書を作成、強引な勧誘で書類送検される会員が続発…。「その時困る」と会長が危惧された事が今となって現実になってしまったわけです。
人材を鍛え上げることに失敗してしまった顕正会にはもう広宣流布を成し遂げる力もなければ使命も残っていない。
所詮、人材を育て上げるのもまた人材。現在の顕正会は痩せた土壌に苗を植えて、過剰に水をやり続けている様なものです。
育て方を知らない者の手によって植えられた苗というものは実に不憫です。
先生の仰る通り、土台として強盛な信心がなければ、御書を心肝に染める事は叶わないのだと思います。
しかしその前に現在の顕正会に、御書を真剣に学ぶ事のできる環境が整っているとは到底思えません。
「難しい事はわからなくても良い」と教え、御書を学びたいという会員の純粋な求道心を否定しておきながら、教学試験になれば「信心があれば自然と仏法の事を学びたいという気持ちが湧いてくる」「信に始まり信に終わる」などと指導する。しかし実際の試験の内容はといえば学会・宗門の誹謗中傷が中心といった有り様です。
いつも同じ御書を引いて耳にたこができる程に聞き飽きたお決まりの指導。
同じ時期に同じ内容の指導を毎年繰り返すといった、全く新鮮味のない講演。
そしていつの間にか御書講義はなくなってしまっているわけです。
そこで、昔あった講義を聞きたいと思ったとしても、過去の先生の指導を求める事は御法度なのです。

今の顕正会を見渡した時、社会的にも力をもった人格者が沢山いる様に思えません。
先生に対する忠誠心はそれは立派なものだと思いますが、一国を揺り動かす程の力ある人材豊富な諌暁団体にはどうしても見えないのです。
浅井先生は地味な勉強をしてきたから大成できたのかもしれません。
しかし、先生が学んできた環境と、現在顕正会に与えられた学びの環境とは全く異なるのです。
地味な勉強を促しながら、「見てはいけない」「聞いてはいけない」「知ってはいけない」というのは矛盾していませんか?
弟子を成長を想う気持ちがあるのなら、自分が学んできた環境を弟子達にも与えるべきです。
自由を許さず束縛し、組織を私物化しているのは一体どなたでしょう?
大義を掲げるのは良いですが、中身が伴わない人の事を“口舌の徒”といいます。
顕正会時代には良く上長から指導されたものです。
「浅井先生は“口舌の徒”を一番嫌う」と…。

顕正会員よ!護法心を取り戻せ!浅井先生の『試練と忍従の歴史』に学ぶ

顕正会「試練と忍従の歴史」(P15~16より)

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“法華経に勝る兵法なし”

講報第一号「大鉄輪」欄(33年8月3日)

『一年前の今日、波瀾万丈の中に「再建妙信講」の旗はへんぽんとひるがえる。ふりかえれば雄々しくも悲壮な出発だった。かくすればかくなるものと知りながらも、遂に濁れる安易を捨てて自ら信ずる道を選んだ。五里霧中ではあったが仏天の加護を固く信じつつ。それから誤解と悪罵と嘲笑の半年、だが見識なき愚人のざわめきは師子王の子を鍛えるのみ。今一年を経た今日、益々所信の正しさを知る。妙信講員は美田は残さずとも貴重なる体験を子孫に語り伝えよ、その語は「法華経に勝る兵法なし」と。権勢にへつらうな、おもねるな、曲げて安易に住するなと、只恐るは仏の金言に違わん事のみ、そのほかに何が怖い。

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私がこの様な事を記事にしようと思ったのは、『無二の師匠』に師事し、『唯一正しき団体』に所属している勇猛果敢なはずの顕正会員が、とことん法華講員の折伏から遁走する姿が余りにも目に余ったからです。

浅井先生が『最後に申すべき事』で諌めたからそれで良いのか?
日如上人猊下に対しては『建白書』を送ってあるからそれで良いのか?

顕正会の主張は「宗門は現在進行形で戒壇の大御本尊様に不敬をはたらき御遺命にも背き続けている」わけですよね?
師匠が勇んで諌暁されるのを弟子はただ傍観していればそれで良いのか…
弟子ならばその1人1人が、その背景たるどぶ板踏んでの宗門諌暁の戦いに身を投じていくべきです。
その他に師恩に報いる術はないと心得なさい。

私が現役の顕正会員だった時は、先輩に付き、「公明党」の看板を掲げる家には片っ端から諫暁書をもって訪ねたものですし、勿論法華講員にも縁あらば折伏に赴いたものです。

『曲げて安易に住するな』
顕正会員は如何なる仏敵が出来しようとも『先生の御指導』という利剣をもって一蹴することは容易いはず。
宗門が曲がり、影ななめなりと。だから地震もおこり、中国も責めてくるのだと。
ならば悪の根源を断たんと法華経の兵法を用い、仏敵宗門信徒と戦っていくことこそ万事をさしおいて急ぎなすべき事ではないのか?

相手が怖かったら申し込まれた法論から遁走せよ
御本尊様への不敬を黙止せよ
との御金言が一体どこにありましょうか。

良く上長に「私達は先生のファンではない。弟子なのだ」と常々指導されたものです。

法華講員に責められ、小身と成りて隠れるが如き現在の顕正会こそ「堕落」という言葉がピタリと当てはまるものではないかと、声を大にして叫びたいのです。

聞いてもいない、触れてもいない、会ってもいないのに法華講員を『見識なき愚人』と断定し、第六天の如く恐れ、逃げ回る。それは真実には正法に触れる事を恐れる故ではないのでしょうか?


※記事を読むに当り、現役若しくは元顕正会幹部以外の方には若干違和感があると思います。あくまで読者対象を顕正会員とし、根底には「正法に導きいれたい」との思いがあって著した内容という事を前提に読まれて下さいm(__)m

『無疑曰信』(むぎわっしん)と『不(ふ)疑曰信』

疑い無きを信と曰(い)う。
天台大師の『天台文句』に説かれた言葉だそうです。
疑っても、疑っても、疑い切れないから最終的に『信』が残る…。
私が御受戒を受けた際に御住職から頂いたお言葉です
「これから日蓮正宗で信心していくに当って、わからないことや疑問に思う事を絶対にそのままにしてはいけない。必ず聞いて下さい。」と仰って下さいました

実は、顕正会時代には“疑わざるを信と曰う”だと思っていました
御住職に、「それでは『不(ふ)疑曰信』になってしまいますよね」と言われてしまいました
正にその通りですよね
疑いは即「煩悩障」だ、信心がないから疑問が湧くのだ、上長に変な質問をすると信心がないと思われてしまう、更に言えば心に何か疑念を懐いただけでも罪障を積むと思い、そのうちに自身の疑う心に対してきちんと向き合えない人格が形成される。自分は信じていると勘違いし、そしてまたその勘違いを信じ込む…そして操り人形、働き蟻の出来上がり…

常より先生から「難しい事はわからなくても良い、信心口唱!」と暗示をかけられている上長達、日常的に『じっくり考える』という事をしない彼らは、この先生の言葉を金言の如く崇め、柱とし、自身の理解しようとする素直な命を謗法の如く嫌う…。まじめな会員さん達の純粋な信仰心は捻じ曲げられ、『答えを求めない事こそ信心』という結論に辿り着く…。気が付けば班長…

『行学は信心より起こるべく候』
良く考えたら『立正安国論』も問答形式なんですよね

もう自分の心にウソをつくのはやめましょう。
三大秘宝の修行は『難行・苦行』ではないのです。
顕正会員さんが正常な思考を取り戻せる様に、一生懸命ブログを書きます。



このブログを訪れた顕正会員へ初めに伝えたいこと‥

顕正会員さんがこのブログを訪問されたという事は、現在顕正会に対して何かしらの疑問が生じていることかと思います。
組織の上長に対してでしょうか。会長先生に対してでしょうか。それとも顕正会の御本尊に対してでしょうか?

当ブログの記事の中に釈然とするような答えが見つかるかどうかはわかりませんが、少しでも貴方のお役に立てれば幸いです。

まず初めに、当ブログは単に顕正会を誹謗・中傷するために立ち上げたものではないという事をお伝えしておきます。

顕正会に対して、単に恨みやつらみの根性だけで書いているということではありません。
ブログの趣旨は「事実」をお伝えすること。また顕正会から日蓮正宗に移って素直に感じた事を綴っているだけです。

根も葉もない、事実無根の情報を垂れ流すつもりはございません。
できる限り根拠を求め、信憑性を重視した記事の投稿を常に心掛けております。

記事の内容に間違いや、異論、反論、お気づきの点等がありましたら、コメントやメッセージにてお知らせ頂けると、運営上非常に助かります。

コメント入力の際には「非公開」を選択して頂ければ、こちらとしても連絡先個人情報を特定することは不可能ですから、プライバシーの問題に関しては気になさらずとも結構です。

では、本題に入っていきたいと思いますが、まず貴方は、

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』

という格言はご存知でしょうか?

顕正会は元来、日蓮正宗の一講中でした。発足は精々50余年前でしょう。
しかし日蓮大聖人の仏法というのは、顕正会が発足する以前から存在しています。
顕正会の歴史(試練と忍従や御遺命守護の戦い)というのは、取りも直さず浅井先生の経験談に他なりません。
それは日蓮正宗の歴史の大局から見れば近年のほんの一部分に過ぎません。
700年以上前の御在世以来、連綿と続く正系門家の長い歴史の中のほんの一部分に過ぎないのです。

何に関しても、そのことについて深く思索しようとするならば、必ず「歴史」という材料が必要不可欠となるのではないでしょうか?
正系門下伝統の化儀や、顕正会では知り得ない沢山の御書、それらの述作の背景、等々。
真の求道心あらば、知りたいと思うのは当然です。
逆に、もしそれらを敬遠し、「浅井先生の経験」からでしか仏法を見いだせないのであれば、
そのような人を指して「愚者」というのではないのでしょうか?

前置きが長くなりましたが、これよりは自己紹介も兼ねて私の顕正会時代の活動から日蓮正宗法華講に移るまでの経緯をざっくりとお話させて頂きます。

私は平成18年4月に現在の東京会館において女子部の方の縁で顕正会に入信しました。
当時は半ば騙された様な形での入信でしたが、その後は上長より折伏理論書を通し、仏法の道理や日蓮大聖人在世のお振舞について諄々と語ってもらう中に、自然とこの仏法に興味を深めていきました。

自身の思いのまま、活動に身を投じていくと、間もなくして男子部へ移籍となり、その後一年余で班長辞令が下りました。

それより脱会までの六年間、幹部会員として自分なりに精いっぱい御奉公を貫きました。

折伏や班員指導となれば、北は岩手まで飛び、南は千葉の南房総まで、幾度も足を運び、身を挺してきました。

約七年間の活動を通して七十名近くの友人・知人・親戚等を顕正会へ入信させ、登壇発表の場も五回程頂きました。

数々の上長さん達にも人道的に大変お世話になりました。私は辞めるまでに五回の隊の移動がありましたので、その分沢山の顕正会員とのご縁がありました。

同志の皆様と過ごした日々は今生人界の良き思い出です。

では次に、法華講へ移った経緯について、当時の心中を交えながらお話したいと思います。

顕正会活動の最中、「功徳」を思われる不思議な出来事を体験することもしばしばありましたが、実際には一進一退を繰り返すばかりで、「功徳で良くなっている」と人に堂々と話せる状況に至ることはありませんでした。

しかしそういった懐疑的な要素は全て「煩悩障」として自己正当化を図り、活動のモチベーションを維持していたと思います。
奥底にある疑念を押し殺し、真剣に御本尊様に祈る強き信心と御奉公に体をぶつけていくことで、どん底からの起死回生を期待していました。

その当時の私を顧みれば、自身の置かれた生活状況を客観視できない、常に結集や後輩指導に気を取られて精神的に余裕のない、他の正当な意見(家族であっても)も聞き入れることができない。そんな状態であったと思います。

そんな頑迷な私が、顕正会と建設的に向き合う運びとなるお膳立てをしてくれたのが、大河ドラマと、当時所属していた組織の皆様でした。

大河ドラマ?と思われるでしょうが、それは人の道徳心や、なによりも歴史を学ぶ事の大事を再認識する良き材料になったのでした。
近年の三作品を一気に視聴しました。一作品50話編成で一話が約1時間ですから、かなりの時間を費やしました。
顕正会活動と仕事に全ての時間を奪われ、俗世間との溝が深くなってしまっていた当時の私にとって、それは大変有意義な時間でした。

まぁ…、その分顕正会の活動に充てる時間が減少したということも脱会を決意する要因となったのかもしれませんが。

組織の皆様のお蔭というのはどういうことか。
端的にいえば、「信心の欠片もなく堕落した組織」の実態を目の当たりにしたという事です。

諌暁書配布と称して公園の散歩。組織の中で信心の話が交わされない。折伏成果の9割以上がネパール人。
特にこのネパール人に関しては、支隊自体がその専属の組織というスタンスで、日本人をメインとしている班は私の班のみでした。
しかし、大量のネパール人が入信しているにも関わらず、重要な「有難い展開」の話を耳にしない。会合でも姿を見せない。
数のみに囚われた「その場しのぎ」の戦い。
このような形を先生が望まれてはずはないと思いました。

更には浅井先生の指導内容と、その下の組織で実際に行われている指導や活動の内容が矛盾していること。
そのことが後に顕正会や浅井先生自体への猜疑心に発展していく大きな契機となったのでした。

例えば、“家庭の宿命の氷が溶け、一家で歓喜の語り合い”との記事は顕正新聞ではよく見かけますが、婦人部では家族で信心の話をしてはいけない、と指導している事。
“自他彼比の心なく水魚の思を成して異体同心”と指導しながら、実際は横の繋がりは禁止されており、縦の関係しか認めない事。

こういったの類の質問は、いくら上長に詰問したところで話をはぐらかされるのみで一向に建設的な会話とは成り得ません。

『師子王は百獣にをぢず師子の子・又かくのごとし』です。
筋の通らないことを黙視していては「不忠である」ということは、浅井先生は常に教えて下さっていました。

つまり彼らは“師子身中の虫”ではないのか?

浅井先生の御指導の通り仏法を実践していないのであれば、是正していこう!と強く思い、自分の思いを上長らに訴えていく決心をしました。

「正しい道理を貫いて、返って不信のレッテルを貼られ、除名になったならば、一分でも大聖人様に申し訳が立つ」
浅井先生の薫陶を胸に、初めて顕正会という組織に対して向き合ってみることにしました。

ちょうどその時分に、婦人部班長であった私の妻は、法華講員ブロガーの“セロリさん”の縁で一足先に法華講へ移りました。

そしてセロリさんや妻から再三顕正会の誤りを聞くこととなるのですが、まだ当時の私には馬耳東風でした。

何故なら私は浅井先生が大好きだったからです。

情の面で大変な執着があったので、聞き入れたくありませんでした。

先生から離れるという選択肢はその時はまだなかったのです。

日曜勤行で浅井先生がお導師をされた時、お声を聴いただけでいつも涙が溢れました。

もし会員活動の実態と浅井先生の指導が相違している事実。実は先生はそのことを知っていてあえて黙認されているとしたら‥顕正会を続ける意味はないのではないかと思いました。

以後、幹部は全くと言って良い程、私の話を真面目に取り合ってはくれませんでした。

いい加減。あぁ、顕正会はこういう組織なのか、と自分のやっている事の愚かしさに気付いたのです。

それよりは、ネットで大聖人の仏法を調べる毎日となりました。

特にYouTubeにおける樋田昌志さんと顕正会員の法論動画には心を強く打たれました。
理路整然と顕正会員を論破する樋田さんを見て、「顕正会の理論は破綻している」という確信を徐々に深めていきました。

日蓮正宗の正しさを実感せざるを得ない内容でした。

そして日蓮正宗のお坊さんと話がしてみたい!との思いに駆られ、妻の念願と相俟って、それはついに実際の行動として実現しました。近隣の宗門末寺へ行き、門を叩いたのです。

その日は丁度御会式の日で、私達がお寺に到着したのは法要の直後、また偶然にも日淳上人の御遷化された11月17日のことでした。

御住職は突然の私たちの訪問に嫌な顔一つせず、真摯に対応され、とことん折伏して下さいました。

4時間以上にわたって、夜の11時近くまで私の愚問の一々に答えてくれたのです。

宗門僧侶は決して堕落などしていませんでした。

その時、初めて柔和な心で触れる『日蓮正宗』に感激している自分に気付いていたし、
遂に本物の師匠との出会ったのだと確信を得ていたのでした。

如何なる縁あってのことでしょう。そのように思わせる程の素晴らしい御住職様と巡り会うことができたのです。

しかし宗門に移るということは、取りも直さず浅井先生を裏切るということ。

その段階に至っても尚、浅井先生に対する執着を払拭しきれてはおりませんでした。

しかし「依法不依人」と説かれる以上、顕正会に残る道理はありません。

そして後日、自ら御住職に電話をして御受戒を願い出たのです。

これは、奇異な自論でしかないかもしれませんが…
私が顕正会で学んだ意義というのは、釈迦仏法に例えるならば「爾前権経における修行」の様な位置づけであったのではないかと思うのです。
結果的に顕正会は偽物でしたが、もし顕正会に入信していなければ、現在日蓮正宗で信仰することもありませんでした。

何よりも「本門戒壇大御本尊」の尊さや、甚深の法理を教えてくれたのは浅井先生でした。

しかし、「不受余経一偈」「正直捨方便」と説かれるように
真実の法華経を説かれた後には、正直に方便は捨て、法華経のみを信受しなければなりません。

私は御本尊様の「開眼供養」など知る由もありませんでした。日顕上人はニセ法主だと思っていました。日蓮大聖人の御遺命は「国立戒壇」だと思っていました。「遥拝勤行」で大御本尊と感応道交すると信じておりました。

一度も真実を耳にする「機会」がなかったのです。

しかし知った後が肝心ですよね。

それでも目を閉じて、耳を塞ぎ、真実を受け入れないというならば、その謗法の罪は免れ難いことでしょう。

多くの顕正会員に真実を知ってほしい、本当の歴史、正しい日蓮大聖人の仏法を知ってほしい。その様な思いでブログを始めました。

何か聞きたいこと等ございましたら、お気軽にご連絡下さい。

長文にお付き合い下さり、ありがとうございました。

プロフィール

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   管理人の名前 "ミミ"
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   29歳・男性
   既婚。長野市出身。
   現在は群馬県前橋市在住。
   
   【経歴】
H18/4 東京会館にて顕正会に入会。
H20/1 男子部班長として活動開始。
H26/11/30 顕正会を辞め、法華講員で御授戒

現在は特定の教団に属する活動は行っていません。

こちらのブログの更新は打ち切りました。移転先はこちら→「IDORA」
    
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