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樋田昌志さんが浅井会長へ三度目の公開詰問状

セロリさんのブログに掲載された法華講員樋田昌志さんの浅井会長へ向けた三度目の公開詰問状を転載致します。
仏法の事をしっかりと学ぶ機会のない顕正会員さん達にとってはこの内容は大変難解だと思われますが、自宗の教義が論破されているのだから、会員さん達は最低限、文章の表面上の意味合いだけでも理解できるように研鑽(けんさん)するなど、仏弟子としての然るべき努力があっても良いと思います。
きっと今回も浅井会長は「見なかったふり、聞かなかったふり」をするのでしょうから、結局会員さん達が頑張って対応するしかないのですよ。
いつか浅井会長は「大聖人の弟子という面目にかけて」なんて仰っていましたが、以下会員さんは師匠と仰ぐ会長に御心に同心して、面目とやらをキチンと示してもらいたいものですね。
無反応というのは卑怯千万です。
以下。

―――――――――――――――――――――

顕正会会長(※登記上は次男城衛氏に代表役員職を譲ったが、未だ実質的な会長) 浅井昭衛殿 
    
         日蓮正宗法華講員 樋田昌志
貴殿に対し三度目の破折・諫暁として一文を送付し、公開対論もしくは公開文書対論を要望する。
一、僧宝に対して貴殿の大謗法行為を呵責する。
貴殿の信仰姿勢は以下の御文・御指南に悉く反する故に大謗法である。
■ 凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり(真言見聞 文永九年七月 五一歳 608)
御法主上人をはじめとして日蓮正宗の「御僧侶を謗る」貴殿ら顕正会は大謗法である。特に御法主上人の御内証、血脈相承の当所は「三宝一体」であり、御法主上人を謗ることはそのまま仏宝・法宝を謗ることになる。これ大謗法にあらずして何であろう。
■ 次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。(中略)大集経に云はく「五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を滅(めっ)せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。(中略)末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳 269)
 大聖人様の「仏宝・法宝」は必ず「僧」に依りて相伝・伝持され末法尽未来際まで久住するのである。
この意義は別して、戒壇の大御本尊の御内証は唯授一人・血脈相承により、尽未来際まで代々の御法主上人により相伝・伝持されていくのであり、その証左として御法主上人はこの世で唯一御本尊の書写を為される御方なのである。
貴殿には相伝もなく、もちろん御本尊を書写できる筈もない立場のくせに、御法主上人をはじめ宗門御僧侶を誹謗している。
が故に破門され、顕正会には尊仰すべき血脈正統なる「僧」がいない。
であるから顕正会には「仏宝」も「法宝」も存在しない。
つまり貴殿らは仏法僧の三宝が存在しない邪道を夢中に行じているだけである。
そんな貴殿らがどれほど会員を勧誘してもそれは絶対に正当な「広宣流布」とはならない。百害あって一利なしである。
 貴殿らは末法の唯一正統の下種仏法を伝持されている御法主上人を悪罵し謗っている。まさに大集経の御文の如く「仏法の大灯明」を滅ぼさんとする大魔族の輩である。
 仏法僧の三宝の恩を報じていくことが成仏の道であるのに、貴殿らはその中でも、特に「僧」の恩を報じていない。
「僧」こそが「仏」と「法」を正統に伝持しているのである。「僧」の恩を報じていないということは、つまりは「仏」と「法」の恩をも報じていないことである。
結局「三宝」の恩を報じていないことになり、成仏など思いの外、三悪道に堕ちる大逆罪の集団である。
■ 華厳経に云はく「恩を知らざる者は多く横死(おうし)に遭(あ)ふ」(四条金吾釈迦仏供養事 建治二年七月一五日 五五歳 994)
三宝の恩を報じていない貴殿らは多く横死(殺害されたり、災禍などのため、天命を全うしないで死ぬこと。不慮の死。非業の死。)に遭うであろう。御金言は絶対である。
これは顕正会内に不慮の災難死・事故死・自殺・若くしての病死などが多くないか、よくよく会員内の厳証を確認してみるべきであろう。
顕正会内外で誰もが貴殿の後継者と目されていた長男克衛氏が顕正会の活動の最前線から姿を消した。
これなども「恩を知らざる者は多く横死(おうし)に遭(あ)ふ」との御指南と関連しているのではないかと危惧されるところである。
■ だんな(檀那)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。(四條金吾殿御返事 建治三年四月 五六歳 1118)
「檀那」とは在家信徒であることは論を待たない。では「師」とは檀那とは別の「師」であるから当然「御僧侶」ということになる。(間違ってもただの俗人である貴殿ではない。)
御法主上人をはじめとして日蓮正宗の御僧侶を完全否定している貴殿らの祈りは全く叶わない。ということである。
貴殿が掲げる「何年までには顕正会員何万人!」との目標が悉く達成できず、数値目標がいつの間にか下方修正されているのも、まさに貴殿の祈りが叶わない証拠ではないか。
■ 在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。(松野殿御返事 建治二年一二月九日 五五歳 1051)
御僧侶を供養していない貴殿らは、例え南無妙法蓮華経と唱えても、全く大聖人様の御心に叶っていないが故に功徳なし。のみならず、大謗法の果報で貧・病・争などの厳罰が多発しているのが現状。
■ 皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。(新池御書 弘安三年二月 五九歳 1457)
 
貴殿も元は日蓮正宗に所属する妙信講員であり、その時は一分の信行があったであろうが、徐々に純粋な信心を失い、今はまさに御法主上人を誹謗し御僧侶を恭敬せず、供養もなさず、自らを慢じて邪見・悪見・愚見・痴見を連発している。
この大謗法の果報で今生では災いが重畳し、後生には無間地獄必定である。
これ実に恐るべきことである。命終の後、無間地獄に堕ちた時に後悔しても最早手遅れである。
■ 末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるが(忽)せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。(新池御書 弘安三年二月 五九歳 1461)
これまさに貴殿の邪態を指弾された御文ではないか。
正統な法門を伝持相伝される立場でもない俗人の浅はかな頭のくせに、法門を少しばかり読み散らかし、全てを知った気になって増上慢となり、あろうことか大聖人様以来の深秘の法門を唯授一人・血脈相承されている日達上人を誹謗し悪罵する。
その結果、戒壇の大御本尊への参詣の道も断たれた無様な姿を「遥拝勤行」などという誑惑で会員を謀り、更には正統な本尊に困り結果ニセ本尊を乱発するに至る。なんと惨めな醜態か。
真の信仰の道を進んでいるという証拠というのは、御法主上人をはじめ日蓮正宗の御僧侶を敬い、現に戒壇の大御本尊様の御前に詣でて信心の誠を尽くすことである。
どんな邪説を百万言並べても、全てこの御文によって木端微塵に打ち砕かれているのである。
貴殿も死期がそう遠くないであろうから、今ここで深く反省懺悔すべきである。
■ 後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。(新池御書 弘安三年二月 五九歳 1461)
貴殿は無間地獄は必定である。しかし真にそれを畏れ免れたいと願うならば、まず下らん名聞名利を捨て、全ての顕正会員の前で自らの非を詫び、現時において唯一「法華経を説く=御本尊書写ができる」御法主上人をまさに生身の大聖人様と拝すべきである。
相伝・相承のないただの俗人の貴殿などが日蓮正宗に背いてできることといえば、せいぜいニセ本尊を印刷する大謗法行為ぐらいであり、どう背伸びしても御本尊を書写できる御立場の御法主上人とは天地雲泥の差なのである。そんな者が何を小賢しく喚いてみても犬・野干が吠えるがごときである。
会員に自分に対して「伏せ拝」などさせて悦に入っているどころではない。
自分が御法主上人の御前で額ずき大謗法の前非をひたすら悔いて詫びることが貴殿に残された唯一の救われる道である。
■ 止観に云はく「師に値(あ)はざれば、邪慧(じゃえ)日に増し生死月に甚だしく、稠林(ちゅうりん)に曲木を曳(
ひ)くが如く、出づる期有ること無し」云云。凡そ世間の沙汰(さた)、尚(なお)以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧(むし)ろ輙(たやす)く自己を本分とせんや。(蓮盛抄 建長七年三四歳 29)
御法主上人を師と仰がない貴殿は、日に日に邪な智恵を増し、生老病死の迷い苦しみは月々に重畳し、我慢偏執の隘路に迷い込み決してそこから脱出することはできない。仏法の師を離れて即身成仏という大難事を己が浅智浅見で叶うはずがないのである。よくよく肝に銘ぜよ。
■但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。(百六箇抄 弘安三年一月一一日 五九歳 1702)
唯授一人・血脈相承の御法主上人に対して「異論」を差し挟んで「総貫主」と仰げない貴殿はこの御指南に背く大謗法である。
もし当該文を「後加文」ということで言い逃れをするようであるならば以下の御指南をよく拝せ。
【関連】●第六十五世 日淳上人全集
百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです

■ 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595)
貴殿が無智な顕正会員を誑惑している御文であるが、ここに■「有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」とある。広宣流布が達成すべき時の条件を明確に示されている。
つまり、浄心に信行に励む有力在家信徒が、唯一正法を持つ御僧侶(時の御法主上人)を不自惜身命で御護りする、その確たる僧俗一致の体制が現出することが広宣流布が達成するための必須条件である。
貴殿はその唯一正法を持つ(=御本尊を書写できる)御僧侶(=御法主上人)を誹謗している。
そんな不浄不潔の不信心な輩など広宣流布を担う資格など毛筋ほどもない。この御文を百万回読んでよくよく我が身の大謗法を知れ。
■ 師弟相違せばなに事も成すべからず(華果成就御書 弘安元年四月 五七歳 1225)
現時における仏法の手続ぎの師である御法主上人を誹謗する貴殿は、何をどうあがいても何事も成就しない。
貴殿の長男克衛氏が顕正会の跡継ぎを失職したのもその厳証であろう。
顕正会の未来が実に暗澹たることを貴殿も心底では感じ嘆息していることであろう。
■ 比丘(びく)の信行は俗の修学に勝る。又比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学解行(げぎょう)は信行の比丘の始信に同ず。
俗は能く悪を忍ぶの義有りと雖(いえど)も受職の義なし。故に修学解了の受職の比丘は仏位に同じ。是即ち如来の使ひなればなり。(得受職人功徳法門抄 文永九年四月一五日 五一歳 589)
僧俗の信行の上での立場・境界の違いを明確に御指南された御文である。
俗人の貴殿などが何をどう学ぼうが日達上人には及びもつかない。
深秘中の深秘の三大秘法の御法門は唯授一人の御法主上人のみが知悉しているのである。
それを薄っぺらな法門怪釈しかできないただの印刷屋の息子の分際で日達上人を誹謗するなどもっての他の大慢心の者、大謗法である。
■ 作法の受職灌頂の比丘をば、信行の比丘と俗衆と共に礼拝を致し供養し恭敬(くぎょう)せん事、仏を敬ふが如くすべし。(同 590)
これまさに御法主上人に対する信行の在り方を御指南された御文ではないか。
御法主上人をまさに大聖人様を拝するがごとく敬まうべきである。
御法主上人を誹謗する貴殿はまさに天魔の付きたる大悪人である。
■ 我が弟子等の中にも「未得謂得未証謂証(みとくいとくみしょういしょう)」の輩(やから)有って、出仮利生(しゅつけりしょう)の僧を軽毀(きょうき)せん。此の人の罪報具(つぶさ)に聞くべし。今時の念仏・真言・律等の大慢謗法・一闡提(いっせんだい)等より勝れたること百千万倍ならん。(同 594)
これまさに貴殿のこと。浅薄な教学しかないのに慢心を起こして思いあがって御法主上人を誹謗する。
貴殿の罪は、一般の邪宗邪義謗法の輩の百×千×万倍もの重きものである。これで無間地獄に堕ちない訳がない。よくよく覚悟して行け。
●「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(『御本尊七箇之相承』聖典三七九)
御歴代御法主上人は悉く(※血脈相承の当処、三宝一体の御内証において)日蓮大聖人である。との御指南である。
貴殿はその「御内証、三宝一体の日蓮」のお立場であられる日達上人・日顕上人・日如上人に対して誹謗中傷・悪口雑言を吐いている。
これまさに極悪の大謗法である。
● 師弟の道を破って唱ふる題目は失のみ来て功徳はあるべからざるなり、(第三十一世日因上人【穆作抄】富要二巻二五八)
御法主上人を誹謗してどう勤行唱題しても罰だらけで功徳はない。克衛氏の末路がその厳証か。
 
● 私の檀那の筋目之を糺すべき事、此は師檀の因縁を示す、檀那は是俗の弟子なり、故に師弟血脈相続なくしては即身成仏に非す、況や我が師匠に違背せるの檀那は必定堕獄なり乖背は即不信謗法の故なり。(有師物語聴聞抄佳跡上 第三十一世日因上人 1-247)
御法主上人に違背している貴殿ら顕正会は無間地獄必定である。
 
● 仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず(中略)
師は弟子をして先仏の法を未来に久住せしめ・弟子は師に依りて過去遠々の法を一時に受得す、(中略)
弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十方の通軌(中略)師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、(中略)
師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ(中略)
信の手続きに依りて師弟不二の妙理を顕はし・能所一体の妙義を証するを以つて本仏所証の妙法蓮華の色心は即所化の弟子の色心となるが故に・生仏一如師弟不二の即身成仏の域に達する事を得、是れ蓋し信の手続によりて生する所のものなり。(第五十九世 日亨上人 有師化儀抄註解 1-124)
即身成仏するためには、必ず御法主上人を尊仰し奉り、日蓮正宗末寺に所属し御住職を尊信しなければ絶対に叶わない。貴殿ら顕正会員は絶対に即身成仏できない。
三悪道に堕ちるのみである。その首魁である貴殿は地獄の最低最下の無間地獄に突き刺さり永劫に熱の業火に焼かれ続けるのである。
● 仏法において正法が混乱しないように相承の道を立てて明かにされているのであります。それでこの相承の跡を尋ねていけば正しい仏法か、間違った仏法かを知ることができるのであります。(第六十五世 日淳上人 日淳上人全集)
相承のない貴殿と、血脈相承明白な日達上人とどちらが正しいのか。子供でも分かる理屈である。
ただの印刷屋の息子である貴殿の主張が悉く間違っているのである。その悪義・謗説を吹聴して多くの顕正会員を惑わしている罪は誠に甚重である。
● 元来法華経と云うお経の骨子は何処にあるかと申しますると、師匠と弟子と云う関係に於て仏法を説かれて居るのでございます。つまり師弟の関係を如何に心得如何にこれを行うかと云う事が法華経の教の骨子をなして居ります。(中略)
 日有上人様は我が宗門の信仰は師弟相対して信を取る処に要があるぞと、仰せ遊ばされているのでございます。で、師の命令に対しては弟子が恐々としてこれを行うんだ、我が身を顧みずこれを行うと言ふ所に信心の要があると云う事を仰せ遊ばされておるのでございまする。(第六十五世 日淳上人 日淳上人全集 183)
貴殿は、釈尊もまた日蓮大聖人様も定められた信行の基本が全くできていなかったのである。
御法主上人の仰せに身を正して信順してこそ大聖人様の御心に通じるのである。その真逆を行く貴殿は救いようのない一闡提人である。
さて貴殿は自己正当化のための文証として
● 時の貫首(かんず)たりと雖も仏法に相違して己義を構(かま)へば之を用ふべからざる事。(日興遺誡置文 元弘三年一月一三日 1885)
との一文を引用している。
だがこの文の「之を用ふべからざる事」の「之」とは、万万が一にも生じた「己義」に対してであり、決して「時の貫主」ではない。
なぜならばもし、この「之」を「時の貫主」と解釈すると他のあらゆる御文と整合性が取れなくなるからである。
そのほんの一端を例示しよう。
例証
 ■ 大集経に云はく「五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を滅(めっ)せんと思へ」と説かれたり。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳 269)
末法の沙門(僧)の代表である御法主上人を「失あり」と糾弾し排斥したならば、それは仏宝・僧宝を伝持する仏法の大灯明を失うこととなり、結果仏法そのものを失うこととる。そういう破仏法行為は絶対に不可なのである。
 ■ 上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。(百六箇抄 弘安三年一月一一日 五九歳 1702)
末法万年に亘って、御歴代御法主上人を日蓮大聖人の如く尊信し、総貫首として尊仰していきなさい。との御指南である。
間違ってもその御法主上人に背反し排斥してはいけないのである。
であるから、●「時の貫首(かんず)たりと雖も仏法に相違して己義を構(かま)へば之を用ふべからざる事。」の意義は、その時代時代の様々で複雑な状況下において御法主上人が万万が一、誰が見ても明らかな「己義」と拝される言を発せられた時、その「言」を用いない。ということである。
貴殿が日達上人をはじめ日顕上人・日如上人へ対して誹謗し悪口していることを正当化できる御指南では断じてない。
よくよく肝に銘じるべきである。
二、顕正会が所持する「導師曼荼羅」について
貴殿の言
▼「このときさらに松本尊能化は、『葬儀のときに困るでしょう』とおっしゃって、日布上人御書写の『大日蓮華山大石寺』の脇書がある導師曼陀羅の御形木御本尊まで、六幅授与して下さったのであります」(『顕正新聞』平成19年10月5日号)
導師曼荼羅は、各末寺の御住職が総本山へ申請し、御法主上人が直筆で一幅ごとに書写され御住職へ授与される御本尊である。
そこには必ず、申請された末寺の寺院名と申請者である御住職の名が授与書きに銘記されている。
つまり同一の複写である「形木の導師曼荼羅」など日蓮正宗には存在しない。
ということは顕正会所持の「六体の形木導師曼荼羅」とは、解散処分後に御法主上人の允可も無く貴殿が勝手に印刷させた大謗法の「ニセ曼荼羅」ということである。
こんな極悪大謗法曼荼羅で死骨成仏・非情成仏の重大事が成就できる訳がない。
もしそれが「本物である」と主張するのならば速やかに日蓮正宗宗門に確認しその証拠を挙げて証明してみせよ。
その証明が為されない限り、当方はひたすら顕正会の導師曼荼羅はニセ本尊である旨を世に喧伝する。(もちろん既に詰問してしているが貴殿から何の証明も為されていない「大幅日布上人形木本尊」とやらについても同様である)
貴殿もかなりの高齢なのだからまだ存命中に自身の信仰上の責任として顕正会所持の本尊の真性を明白に証拠を挙げて内外に証明すべきであろう。
もしそれが出来ないのなら潔く前非を悔いて顕正会員全員を引き連れ、御法主日如上人の御前にて額ずき、大懺悔して顕正会を解散し、心からの謝罪をすべきである。
そうせずしてこのまま死期を迎えたならば、未来永劫に悔いを残すことになるであろう。貴殿に残された唯一最後の救われる道である。
以上の破折・詰問についての明晰な反駁があるならばその反論期限は平成26年8月15日とする。
貴殿の勇気ある潔い対応を心より期待する。
平成  年 月 日

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[ 2015/06/16 12:45 ] [ 編集 ]

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