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「日顕上人は浅井先生の法論対決から逃げた」との邪難について 2

前回記事の続きです。
総本山大石寺、第九世日有上人『化儀抄』より。

『第44条 処分者に交わるな』

『一、上代の法には、師範より不審を蒙る族(やから)をば一度訪(とぶら)うべし、二度は訪うべからず、と云う大法なり。其の故は、与同罪の科(とが)大切なり。又、堅く衆に同心に会せずしてこらさんが為めなり。亦、衆に見こりさせん為なり。』

本宗(日蓮正宗)においては、日蓮大聖人・日興上人の代から定まっている掟として、師匠から謹慎などの処分を受けた人に対しては、一度は、その人を戒めるために訪問し、話をしても良い。しかし、二度とは、その人を訪問してはならない、というのである。
「其の故は」。なぜ二度とは訪ねてはならないのか、その理由を三つ挙げられている。
まず、一番目の理由は、与同罪を恐れるからだ、とされている。
要するに、一度でわからなかった者に、二度、三度、重ねて話していくと、人情に絡まったり、言葉巧みにたぼらかされたりして、結局、自分も相手と同じ気持ちになっていってしまう、それでは与同罪になってしまうというのである。
二番目の理由としては、処分を受けている人を孤独にすることによって、よくよく反省させるためだ、とされている。
実際、閑静なところで孤独にしておかれれば、まだ反省することもできるが、愚痴を聞いてくれたり、話すことによって気が紛れる、というような相手がいると、なかなか心からの反省ができなくなる。ましてや、これまで付き合っていた人が、今までと変わりなく、頻繁に訪ねてくるということになると、悪いことをしたという自覚が、だんだん薄くなっていってしまうものである。
三番目の理由としては、処分を受けて孤独な状態におかれているという姿を大衆にみせる事によって、いまだ罪を犯していない人達の、将来の戒めにするためである、とされている。
(化儀抄のやさしい解説 P112~113)

顕正会では日有上人の存在すら知らない方が多いかと思いますが、顕正会勤行要典の御観念文に「…冨士大石寺歴代血脈付法の御正師云々」とある以上は、総本山第九世日有上人も敬うべき先代の御正師と知らなければなりません。

二番目の理由に「孤独にする」とあります。今の顕正会員さんにはあまり実感がないと思いますが、妙信講時代は当たり前のように行われていた大石寺への御登山も許されなくなる事も意味しますね。

顕正会員さんがまず忘れてはならないのは、「顕正会の前身は日蓮正宗妙信講であった」という事、つまり「スタート時は日蓮正宗の一講中であった」という事です。

ですから、教義も全て日蓮正宗の真似事、時を経ると過去の事実は記憶から薄れてしまいがちですが、全ての出発、大本はそこからなのです。

つまり顕正会は日蓮正宗からすれば「処分者」という扱いになるのであって、解散処分後の日蓮正宗から顕正会に対する接し方や、関わり合い方については、他の宗派とは相違があって当然でしょう。

顕正会は本来、日蓮正宗に対して「反省・懺悔すべき立場」であって「決して攻撃する立場」ではないという事です。

翻って言えば、日蓮正宗側から顕正会に求めるものというのは「反省・懺悔」なのです。

ただし、破邪の精神に基づいた道理の上から、御法主上人に代わった御弟子さんが公式に返書という形に著し、最低限の然るべき対応したものと拝します。

日蓮正宗は「信仰の団体」ですから、チンピラ同士の喧嘩などとは全くわけが違うのです。

上代の定めし掟に従う事は伝持付属の意義からしても基本的には大変重要な事なのだと思います。ただし、どの部分が本義・本筋であるか、外れなくとも、どの範囲まで寛容な解釈が許されるのかといった御判断は時の御法主上人に一任されるところなのでしょう。

三番目の理由である宗内の戒めという意味においては、浅井会長の宗門離反の姿こそ正に大変良い反面教師になっている事は間違いありません。

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