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時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構へば之(こ)れを用うべからざる事(その4)

では最後に、対告衆についてです。
日興遺戒置文の末文を拝してみます。

『万年救護の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、 敢(あ)へて疑惑を生ずること勿(なか)れ。 此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず。仍って定むる所の条々件(くだん)の如し。
元弘三年癸酉正月十三日   日興 花押 』


要するに、「後代の学問する僧侶」に対して与えられたものであって、「在家信徒」に与えられたものではないということですね。

ということは本来、この御遺誡の解釈を、在家信徒が勝手に軽々しくに論ずることは控えるべきであるということなのです。

御僧侶に与えられた御遺誡であれば、御僧侶の会通を通して拝し、そこに信を取っていくべきであって、その段階を飛び越してダイレクトに理解しようとしても御聖意を掴むことはでき得ません。

それは、御法門や教義における、知識・理解力ということに、明確な差異があるからなのです。

このことを解り易いように、顕正会に当てはめて考えてみましょう。

浅井先生は、「ここに大聖人ましませば何を命じ給うか」。常にこのことを信心の耳で聞き奉り、御奉公を貫いてきた。と、仰いますし、
登壇においても「浅井先生にお応えして参る決意であります」という決まり文句がありますが、「大聖人様にお応えして参る決意であります」とは言わないでしょう。
一般会員が直接、大聖人様の仏意を拝することはでき得ない。だから必ず浅井先生にワンクッション置かれるということは顕正会でも確たる信条として定着していますね。
また浅井先生以下の会員の中でも、例えば「入信勤行の導師は副長以上に限る」といったように筋目関係が存在していますよね。

しかし、元来日蓮大聖人の仏法において、その取次ぎ役のポジションというのは僧侶が担っているのです。
就中、それは御法主上人(本師)なのです。
その御法主上人から代理としての命を受け、各末寺に派遣されているのが、末寺住職(小師)という存在です。、この末寺住職は、在家信徒が直接的に「師・指導教師」と仰ぎ、個人の仏道修行を進めていく上で最も身近で重要な存在といえるでしょう。

ですから「大聖人」→「御法主上人」→「末寺住職」→「在家信徒」といった筋目を違え、外れてしまった者がいくらこの御文について講釈を垂れたところで、単なる部外者の持論・自説でしかないということになります。

この御遺誡の解釈ということに限らず、結局、御書の解釈というのは、あくまで御僧侶の会通を元としなければ真意は拝し得ないということです。
この「僧俗一致」の精神を広く世に弘め、その極まった相(すがた)が「広宣流布」であるということなのです。

顕正会、浅井会長は、その信仰上の土台となる環境を自らがすすんで放棄してしまったといえるでしょう。

終わり。

みきやさんへ

ご意見ありがとうございますm(__)m
やはり仰る通り、自分のブログ内だけでは収拾がつかない事態に発展する恐れがあると思い、削除致しました。
記事の軽率な投稿には気を付けていきたいと思いますm(__)m
拍手0ということからも、読者の皆様からの冷やかな反応が窺えました(^-^;
[ 2014/10/10 20:23 ] [ 編集 ]

ありがとうございます。
私は顕正会員ですが、真面目に貴方のブログを拝見させていただいてます。

大変勉強になりますので、これからも顕正会の間違いをどんどん指摘して下さい。
[ 2014/10/10 21:01 ] [ 編集 ]

みきやさんへ

こちらこそありがとうございましたm(__)m
今後とも宜しくお願いしますm(__)m
[ 2014/10/10 22:36 ] [ 編集 ]

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