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時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構へば之(こ)れを用うべからざる事

顕正会では、日興遺誡置文のこの条目を「仏法を曲げた貫首は用いなくてもよい」などと強引に解釈を歪曲し、会の存在意義の正当化を図る一つの拠所としていますね。
 『守護国家論』には、邪教を弘める行者の特徴として、
「或は小(すこ)し自義に違ふ文有れば理を曲げて会通を構へ、以て自身の義に叶はしむ」
と示されています。
自分の御都合に合わせた自分勝手な解釈こそ、正に、条文中に示される「己義」に附合するのだということです。

以下。この条目についての日達上人、日顕上人の通釈を、過去の御講義から該当箇所を抜粋し掲載致しました。
顕正会員さんにおいては、じっくりと何度も読み返して、日興上人の御聖意をしかと銘記された上で、須く信仰の寸心を改められんことを念願致します。

【日達上人御講義 昭和45年6月28日 富士学林研究所の砌】

 「 時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之れを用うべからざる事。」(法主全書一-九八)
 これをとって、私が己義を構えているようなことばかり言う人がありますし、それをまた信者の人でまねをして言う人がある。
 過日は、高知の大乗寺の檀家で総代であったなんとかという者が、一生懸命にこれを書いて、人のところへ手紙を寄こす。大乗寺の事件において私は己義を構えたことなんか少しもない。それを「己義を構えた、己義を構えた」と言ってますね。これについて少し説明したいと思います。
 私は自分で勝手に己義を構えて勉強しているわけではないのです。やはり若いときは日亨上人について触強もしたし、日開上人について勉強もしてるんです。決して己義を構えてかってなこと言いたいほうだいに言っているのではない。
 その前に、
 「下劣の着たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。」(法主全書一-九八)
 これに対して、そのあとに、
 「衆議たりと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。」(法主全書一-九九)
とあります。
 それで、「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えたならば、」さきほど誰かが言ったが、構えたか構えないかは誰が判断するんだということになるんですね。そうすると、すぐに、「御書によってだ、」あるいは、「先師のおことばによって、」となる。じやあ、先師のおことば、あるいは御書に相違しているかは誰が見つけるかということになる。そこで問題です。御書はあるにきまっているので、これは鏡です憲法があって、悪いことをしたとする。それは憲法があるからと言ったってただそれだけでは仕方がないでしょう。悪いことをしたから、その憲法に照らしてどのくらい悪いかを調べるのが裁判官である。だから、現に泥棒がいてつかまったって、これは容疑者としてつかまえているのであって、はじめから、これはこういうことをしたというのではない。裁判にかけてこそ、はじめてこれは泥棒であったとか、こういうことをしたからこれだけの罪があるとかというのである。御書があるといったって、御書と貫首の言ったことを誰がそれを裁判するのか。末寺の住職が裁判する、とここに書いてあればよい。あるいは隠居さんがしろ、と書いてあればよい。しかし、何もないじゃないですか。ところがこっちにはあるでしょう。「下劣の者たりと雖も我より」と、ちゃんとあきらかに第一人称がある。「我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事」自分より勝れている者は、たとえ下劣の者たりといえども、師匠としなさい。こちらもそうです。「衆議たりと雖も仏法に相違あらば貫首之を摧くべき事」と明らかに第一人称があります。ところがこれはないでしょう。ないにもかかわらず、すぐに貫首が己義を構えた、なんてとんでもないことを言ってるわけで、これは少し考えてもらいたい。

 これの意味は、「貫首であっても、仏法に相違して己義を構えるそういう者を用いてはいけない」というんです。貫首は誰を用いてもいいんだ、誰でも用いられる。どういう役にでも、あるいは自分の補処にでも、何にでもできる。しかし、仏法に相違して己義を構えた者はこれを用いてはいけないと書いてあるんです。だから、ぜんぜん話が違う。それを、ただ、貫首が仏法に相違したからこれを用うべからずなどと、何を言うんだかさっぱりわからない。これはよく考えてくれなければ困る。そういう解釈がちゃんとある。一つはふつうに今まで言ったとおりにしてもいちおうは通るにしても、もうひとつ深い意味があるということを考えてもらいたい。その例があるでしょう。
 今、聖教新聞の人間革命によく出ている小笠原慈聞がそうじゃないですか。小笠原慈聞がはじめ処分された。処分されてまだ処分の期限が切れないのに、あれを採用してしまったんです。それだからあんな事件が起きてしまった。だから、神本仏迹などという、仏法に相違して、己義を構えた者は、これを用いてはいけないのである。

【日顕上人御講義 第41回全国教師講習会の砌】

例えば、皆さん方の総意で私に退座を求めたとします。今、創価学会では盛んにヒロエ・クロウなる者の虚偽に証言を喧伝しておりますので、それが全く事実でないにしろ、私に徳がないからそのようなことになるのだということで、仮に皆さんが、退座すべしとの決議をしたならば、私は沈思して考えます。つまり、それが宗門にとって、また御法のために必要であるならば、私は自らの意思で退座することもありうるということであります。しかし、それが御法のためにならないと判断した場合には絶対に退座いたしません。これは、日興上人の二十六箇条に、
「衆義たりと雖(いえど)も仏法に相違し有らば貫首之れを摧(くじ)くべき事」と示されておるとおりであります。
その反対に「時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事」
ともあります。これについての日達上人の御解釈は、貫首に主語があるというもので、すなわち、貫首は、仏法に相違して己義を構える者を用いてはいけないというものでした。
しかしまた、別に意味において、貫首が己義を構えた場合にはその貫首の意を用いてはならないという在り方も、私はあると思います。
このようなことは絶対にありえませんが、仮に「これから南無阿弥陀仏を唱えようではないか」と私が言い出したとしたならば、皆さんは用いないと思いますし、絶対に用いてはなりません。また私を放逐(ほうちく)しようとすると思います。
けれども、この日柱上人の場合は絶対にそういうことではなかったと思うのです。ただ、衆議が色々と出て、それを日柱上人が深くお考えあそばされた上で、ここは私が退いたほうが御法のためになるとの、自らの深い御思慮の上からの決断であったと拝するのであります。したがって、「辞職させることはできるのでしょうか?」という質問に対しては、はっきりと、
「辞職させることはできない」
と、申しあげておくものであります。
(中略)
とにかく、それらすべてをお考えあそばされた上えの、自らの決断による辞職であったわけです。
「時の貫首たりと雖も…」についての記事【その2へ】

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