スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] |トップページへ戻るスポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構へば之(こ)れを用うべからざる事(その3)

次に条文中の「之(こ)れ」の解釈ですが、そのことについて日達上人は、あくまで貫首、即ち「御法主上人」を主観にして「仏法に相違して己義を構える者」と、読むべきであると仰せです。

しかし、日顕上人は、この日達上人の会通を示された上で、「別の意味もある」として、「もし貫首が己義を構えた場合、その意を用いてはならない」とも仰せになられています。

こちらの解釈の方が、顕正会で教えている読み方に近しいところがあるかとは思いますが、その後にさりげなく「このようなことは絶対にありえませんが」と一言添えられている点については大変重要です。

つまり、「絶対にありえない」というのは、御法主上人の立場上での表現と拝すべきであって、御法主上人以外の宗門僧俗においては御法主上人の意に対して「たとえどのような内容であったとしても、それが直ちに己義であると早計に判断すべきではない。どこまでも信奉・随順していくべきだ」という意味合いとして捉えるべきではないかと思うのです。

確かに顕正会の言うように、当時創価学会の、正本堂についての教義上の意義をめぐった宗内での紛糾に端を発して、52年路線と呼ばれる教義逸脱問題に続く一連の流れに対する御法主上人の言動、振舞というのは、学会以外の僧俗の目線からは到底理解し難いものであったかもしれません。
管長としての対応が教義に照らした上で適切ではなかったのではなかろうか?「慰撫(いぶ)教導」という表現では納得できない。創価学会のみに肩入れして、それ以外の僧俗に対して平等に慈悲を垂れていたとは思えない。
等、様々な疑心暗鬼が宗内に蔓延していたのは事実であったのでしょうし、私も当時その場にいたとしたら、日達上人の御説法を消化できずに、信用を喪失していたかもしれません。
思うに、心だけはどうしようもありません。「疑うな、信じろ」と言われても、心の中で整理がつかない時はありますし、それは仕方のないことでしょう。

ただし…。
用いないのは、あくまでその御法主上人の「意」にとどまらなければならないのです。
つまり「之(こ)れ」とは、万一にも御法主上人に分明なる己義があった場合に、その己義のことを指しているのであり、「御法主上人の御事」というわけではありません。

御法主上人自体を用いないという意味ではないのです

『義浄房御書』には、
「相構(あいかま)へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり」
と示されております。

自分の心を師としてはいけないのです。

浅井先生が「考えや信念」を貫いた姿はカッコ良いかもしれませんし、その振舞がもたらした他への影響力も大きかったかもしれません。
つまり浅井先生が「師」としたのは「自分の考え・信念」なのです。

たとえ一時的に、御法主上人への信受が叶わず、「意を用いない」ところまでは許されたとしても、だからといって「師を用いるな。師を捨てて自分の信念に従って行動すべし」などとは、どこにも書いてないのです。
「時の貫首たりと雖も…」についての記事【その4へ】

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://yorori1130.blog.fc2.com/tb.php/138-b324d51f











上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。