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「如説修行」の三義

先日奉修された、十月度の御報恩御講にて御住職様より「如説修行」についての講話を賜りました。

この「如説修行」という言葉ですが、顕正会でも多用しますよね。私も顕正会時代には良く耳にしました。
例えば、「無二の師匠浅井先生の下、如説修行が叶う有難さ」といったように、登壇の文中に良く登場したりします。

しかし、その意味について、果たして浅井先生から明確な御指導があったでしょうか。

私の記憶ではなかったと思います。

実はこの「如説修行」という言葉は法華経の中に「9回」も登場するそうです。その回数の多さに驚きです。
まぁそもそも顕正会ではこの「如説修行」の意味に限らず、どの仏法用語についても詳しく教えてくれませんよね

なんとなくニュアンス的に使っている用語が多いような気がしますが、世間のそこらの言葉とは違って、仏法の上で使われる用語には必ず甚深の意味合いが具わっています。
一つ一つの意味をしっかりと理解するところに新鮮な感激があるし、そういったものの積み重ねこそが信仰の礎となるのではないでしょうか?

今回の御講で御住職様が題材にされた御書は「如説修行抄」でした。

「如説修行の法華経の行者には三類の強敵の杖定んで有るべしと知り給へ。されば釈尊御入滅の後二千余年が間に、如説修行の行人は釈尊・天台・伝教の三人はさてをきぬ。末法に入っては日蓮並びに弟子檀那等是なり。我等を如説修行の者といはずば、釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず。」

※参考
「如」…その通りである事、同じ
「説」…仏が説いた教えや経典
「修」…習う、人格を整える
「行」…身に行う事

読んで字の如く、「仏様の説かれた教えの通りに仏法を実践する」といった様な意味合いだろう、というところまでは凡そ殆どの人が察しがつくのではないかと思います。
しかし「教えの通り」とは具体的に、どのような行体のことを指すのでしょうか?
そこを明確にしなければ、「如説修行」の具体的な方途が見えてきません。つまり実践的ではないのです。

そのことについて日寛上人が『如説修行抄筆記』というものを著し、この「如説修行」ということについて3つの義に開いて解り易く御指南されています。

○如説修行の三義

「人法相対」…<法に随順する>
如説は法に約し、修行は人に約す

「師弟相対」…<師匠の教えの通りに実践する>
如説とは師説なり。修行とは弟子に約す

「自行化他」…<自行と化他行を両立する>
如説とは化他なり。修行とは自行なり

以上。これらが三つの義となります。
ちなみに「相対」には「向かい合う」「関係性をもつ」といった意味合いがあります。

顕正会員はこの日寛上人の御指南に則って「如説修行」ができているのでしょうか?

細かく解析して書くと大変長くなってしまうので今回は「師弟相対」の「如説とは師説なり」というところのみに絞って考えてみたいと思います。

「師匠の教えの通りに実践する」ということは顕正会員は宗門信徒以上に強調する傾向があるかもしれません。

登壇の言葉尻には「無二の師匠浅井先生に必ずやお応えして参る決意であります」という文言が必ず入りますし、他の場面でも、「先生のお心」とか「先生仰せと通りに」とか、頻繁に耳にします。
顕正会員はとにかく、「浅井先生のお心に適った信心」を常に心がける意識においては、ある意味必要以上に強いと思います。

それ自体は素晴らしいことです。

しかし、ここで顕正会員に考えてもらいたいのは、自分自身のことではありません。

「浅井先生自身が如説修行できているのかどうか?」
ということなのです。

浅井先生の師匠とは一体何方なのでしょうか?
中島円妙院日彰上人でしょうか?松本日仁能化でしょうか?
しかしこれらの方々はとうに遷化されてしまいました。
今現在において、師とは何方か?ということですから、そうするとこのお二人の方々ではありません。

では、大聖人様でしょうか?
顕正会員に質問するとしたら、この回答が一番多そうですね
700年以上前に御入滅されているのだから、単純に考えてもまず物理的に不可能でしょう。

幸福の科学では「霊言」というものを説いて、その「霊言」が教祖とリンクして、「霊言」の意志が教祖を媒体として、皆に伝えるという教義があるそうですが、(実際に大川劉邦さんが、現在日蓮大聖人の霊言とリンクしていると主張してインタビューを受けている動画がありますが)、顕正会もそのような教義を立てているというわけではありませんよね。

根拠は、「教えに忠実だから」とか「御遺命を護ったから」なんて言いそうです。

また、「浅井先生は常住此説法の大聖人様の声を信心の耳で聞き奉っている」とも言うのでしょうが、ここでは、「今現在、生身の師匠がいるかいないか」という事を争点にお話をしているので、これらは全て論点のズレた頓珍漢な回答です。

つまり、「浅井先生には師匠がいません!」
ということは「師説」を受けることもなければ、何方かの「弟子」ということでもありません。
「浅井先生の中の空想の大聖人様を師と仰ぎ、弟子であるという妄想にふけっているだけに過ぎないのです。」


日蓮正宗では歴代先師上人を初め、全ての僧俗が必ず何方かを師匠と定めて、仏法を実践してきた歴史的事実があります。

例えば、日寛上人の師は日精上人です。
昔には末寺得度制に則した師弟関係の定めがあり、年分得度制の現在において、御僧侶方は皆御法主上人の直弟子となります。
在家信徒も皆ことごとく、それぞれの菩提寺の御住職を師と定め、師弟相対した信行に努めるのです。

師である浅井先生その人が如説修行の実践者でないということは、「師は針の如く、弟子は糸の如し」ですから、浅井先生を師とする顕正会員も総じて「如説修行ができていない」ことになります。

「如説修行」を日寛上人の御指南の通りに実践したいと願う顕正会員さんには、一刻も早く日蓮正宗に帰伏されることをおすすめします。

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