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顕正会の「折伏」について思うこと

折伏というのは「布教」するための方法の一つであって、別に「摂受」という方法も存在しますね。

顕正会折伏理論書からそのことについて書かれている箇所を引用します。

「仏法を弘める方法に摂受(しょうじゅ)と折伏という二大潮流がある。摂受とは摂引容受(しょういんようじゅ)といって、たとえ相手が低劣なる法を信じていても、これを容認しながら次第に正しい教えに誘引していくという柔かい弘教法である。いっぽう折伏とは、破折屈服の義で、相手の間違った思想・信仰を破折し、唯一の正法に帰依せしめるという剛い弘教法である。」(P76)

私はこの説明について特に異論があるというわけではありません。

問題にしたいのは、顕正会員が実際に行っている弘教法は、上掲の「折伏」の説明とは随分違った印象を受けるということです。

顕正会では折伏のことを「功徳の讃嘆行」と言いますが、とにかくご利益の凄さを語りまくることで対象者の入会を促すことを骨子とします。

「御本尊の功徳(ご利益)の凄さ」や、「日蓮大聖人の尊い御振舞(竜の口等)」については「ご利益」を語る上での裏付けとして後から説明されるパターンが多く、場合によっては省かれてしまうのではないでしょうか。

もし対象者が何か他の信仰をしていたとしても、まずは「入信勤行」が優先されるので、そんなことはお構いなしといった具合に会館や自宅拠点へとにかく引っ張っていくことを第一に考えます。

結局彼らは、対象者が「入信勤行」、いや、「入信報告書に個人情報を記入」してくれさえすればそれで良いのです。

ご利益話や、仏法の話は「釣り」であり、「一名」に繋げるための手段くらいにしか考えていない会員さんも少なくないのではないかといった印象です。

そして無事に入会させることのできた新規会員には、まず仏法の話に歓喜を起させた後に、「試練と忍従の歴史や、誑惑 ( おうわく ) の正本堂崩壊す、御遺命守護の戦い」等を通して、「浅井先生絶対」という信条の植え付けが徐々に繰り返し行われていきます。

そのように教育された会員は、最終的に「御本尊」よりも「浅井先生」を信じる、といった「浅井先生信仰」へと変化をとげていくのです。

この「浅井先生信仰」の解り易い例として、幹部会員の発言を具体的にあげれば、

「浅井先生が用意して下さった御本尊だから疑うことはしない」
「私は日蓮大聖人の仏法ではなく浅井教を信じていきます」
「浅井先生の御発言に諸天が感応する」

これらは私が直接幹部会員の口から聞いた言葉です。

「もし浅井先生が間違っていたとしても、浅井先生についていく」

又聞きですが、これも幹部会員が吐いた言葉。

これらの発言を、彼らの入会の時点に遡って考えてみると、明らかに「帰依の対象」が異なっている、すり替えられてしまっているということが言えます。

浅井先生は絶対に間違わない。客観的に見て浅井先生の言動が明らかにおかしかったとしても、会の中では常に正当化されてしまう。「神格化」とはこのことでしょう。

これこそ顕正会が真の目的とするところであり、誘引したい最終地点なのです。

つまり顕正会の教義信条における「正しい教え」とは即「浅井先生の御指導」であり、御書だろうが、先師上人の御指南であろうが、「浅井先生が取り上げないもの」に関しては、短絡的に「正しい教え」ではないと判断しているのです。

まるで「浅井先生絶対」に到達するまでの一連の流れ、プロセスは「方便」であるかの如くですね。

以上。勧誘の時点から、「顕正会での真実」へ誘引するまでの流れを、先程の二種の弘教法に照らして考えてみると‥。

「折伏」というよりも、少々強引ですがどちらかといえば「摂受」といった方がしっくりくるような気がします。

もっとも「柔かい」かどうかは分かりませんが‥。

また、これも経験談ですが、私がまだ顕正会員であった頃、同じ職場のブラジル人の方が他の顕正会員の方の折伏(勧誘)によって入会させられたという出来事がありました。

なぜそれが分かったのかというと、そのブラジル人の方は自分の作業台の上に顕正会の勤行要典を置いていたからです。
私が同じ顕正会員であることを伝えるとそのブラジル人の方は、「私キリスト教信じてる。どうしたらいい?」と聞いてきたのです。
そんな基本的なことも教えないまま入会させたのかと、紹介者を大変不審に感じました。

紹介者の役職は班長であり、その場には副長もついていたとの事でした。

全ての会員がというわけではないでしょうが、顕正会では弘教法を「折伏」と称しつつ、たとえ相手が低劣なる法を信じていても、ひとまずこれを容認するということが行われていることは事実です。

「正しい道理」で相手の間違った思想や信仰を破折する。そういった弘教法を「折伏」というわけですが、だいたい非社会的な思想かつ、伝統的教義信条から逸脱した新興宗教団体の人が「正しい道理」を説けるはずがありませんね。

顕正会で行っている布教の方法が、「折伏」であるとは到底言い難いのではないかと思います。

創価相手に金と信者の取り合いを日蓮正宗が
90年代無様な日蓮正宗笑わせないで下さい
阿部日顕と池田大作の争いの果ての
どこに道理なんてあるんでしょうか
[ 2014/11/27 06:04 ] [ 編集 ]

Zさんへ

日蓮宗系の方でしょうか?
文章が支離滅裂でイマイチ意味が読み取れませんが‥。
[ 2014/11/27 19:43 ] [ 編集 ]

どのあたり支離滅裂なんですか
教えてもらえますか
[ 2014/11/30 04:21 ] [ 編集 ]

Zさんへ

う~ん…全体的にですね。批判めいた内容ということはなんとなく理解できますが…。
過去の出来事に対する理解の仕方が、私とZさんでは大きく違うのかもしれません。
[ 2014/11/30 15:01 ] [ 編集 ]

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