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顕正会から日蓮正宗に移って1年

顕正会から日蓮正宗に移って早1年が経過しました。一体どのような変化があったか振り返ってみたいと思います。

【職場への遅刻がなくなった】

顕正会時代。私は恥ずかしながら遅刻の常習犯でした。特に前職では朝が早い仕事ということもあり、朝数分の遅れはしょっちゅうでした当然の如く信用を失い、職場では常に疎外感を感じておりました。現在の仕事においても、週に一度は朝礼に遅れたり、ギリギリの駆け込み出社がほとんど。やはりそのことが原因で信用を失っておりました。
起きようと思っても起きられないのです。意志薄弱なのです。中学くらいからの悪い癖であり、社会人として終わってます。
本当に本当にお恥ずかしいことです。
そのことは顕正会の本尊にいくら祈っても決して成就することはありませんでした。

ところが現在、職場に遅刻することはありません。
相変わらず朝は弱い体質であること自体に劇的な変化はありませんが、朝礼に間に合わないということはまずなくなりました。必ずしも毎日ではないにしろ、朝起きてコーヒーを飲み、勤行をあげ、時には通勤途中コンビニへ寄ったりするゆとりが持てるようになりました。
転換期はというと大体今年の3月頃でしょうか。

・御本尊様が家に安置されるようになって、毎朝「御給仕」をするようになったこと。
・また毎日「唱題行」の実践を継続的に行ったこと。

顧みると、この2つを意欲的に取り組むようになったことが思い返されます。
朝、御本尊様に水をお供えすることが習慣的に身についてくると、ベットの中でそのことが頭をよぎるようになり、まるで「御本尊様に起される」かのように目覚めることが度々あります。
唱題行に関しては現在は毎日は行っておりませんが、樋田さんの動画を拝聴し、「変わるにはこれしかない!」と感銘を受け思い立ったが吉日、御住職様に御作法を確認の上、職場から帰宅後「夕飯前」に夕勤行と約1時間の唱題をひたすら行いました。
私はブルーカラー労働者の割には体力のない方なので、毎日帰宅後にこれをこなすのは、相当なパワーが必要でしたが、その頃から徐々に「今までとは違う目覚め方」を体感するようになりました。
今でも、前夜の就寝時間に関係なく、気が緩むとついつい数分寝過ごしてしまうことがあります。やはりそういう時は、信仰の行体の緩みがちであり、こういったてき面な現証は信仰の上で、行体の見直し、軌道修正の絶好の機会です。

とはいえ職場に朝遅れなくなったことは事実で、このことは正宗に移籍してより、生活上に目に見えて表れてきた果報の一端だと思います。

ちょっと気になりましたので

当方、特段何かに信心している者ではありませんが、知人に顕正会員がおり、
勧誘を受けたりしていることもあり、興味深く拝見させて頂いております。
今回拝見してどうしても言わせて頂きたかったので書き込みます。
遅刻しなくなったのは日蓮正宗のおかげ、それは良いことですが、

"そのことは顕正会の本尊にいくら祈っても決して成就することはありませんでした。"

遅刻は顕正会のせいですか?
自己に起因する不都合を責任転嫁していませんか?
良かったことは全部正宗のおかげ、悪いことは全部顕正会のせい、のように
ならないで下さい。それでは拠り所を変えただけで根本は顕正会と変わらなくなって
しまうのでは無いでしょうか。
私の読解力の不足による見当違いな指摘になっているようでしたら申し訳ありません。
[ 2014/12/28 23:05 ] [ 編集 ]

jvx-cさんへ

初めまして(^-^)日頃のご閲覧ありがとうございます。
仰る通りだと思います。まして現在無信仰だということであれば、そういった御指摘はごく当たり前のことかと思います。

文章の中に少々語弊があったかもしれません。

顕正会時代、朝起きられなかったからといって何の努力もしなかったわけではありません。
目覚まし時計を沢山設置してみたり、朝目覚めが良くなる健康法なども試したりしてみたこともありました。
祈って、後は何もしなかった。と、そういうことではありませんでした。

悪い事の原因は全て『自分自身にある』と思っていますし、仏法ではそのように説きます。

顕正会に属して活動をしてきたことも、自分自身が選んで決めて行ってきたことですし、そのことによって現在生じている様々な弊害も、顕正会のせいにするのは愚かしいことだと思っています。

しかし、「拠り所を変えただけ」ということが、これ程までに自身に影響が表れてくるものかと驚嘆しているところです。
そのことばかりは双方を実際に信仰してみなければわからない実体験です。

暁鐘出版の『折伏入門』という本にそのことが解り易く書かれていたので該当箇所を引用させて頂きます。

Q、拝めば幸福になるとでもいうのですか?

A、そのとおり。結論からいえば、拝めば幸福になるのです。
なぜかということについて説明しますと、たとえば私達が生きていく上で友達を持ちますね。そして、友達と付き合っていくと、その友人の持っている癖や考え方、人生観などが多分に自分にも影響してきます。
それは、普通に付き合っているだけでも影響を受けますが、その友人を、なんて良い人なんだろう、なんて立派な人なんだろうと思って、心の底から信頼し、尊敬していく、そういう気持ちが強ければ強い程、受ける影響も強くなる、というのが現実です。
信仰するということも、これとほぼ同じなのです。“信仰”ということは読んで字の如く、信じて仰ぐということで、信頼する、尊敬するということを、もっとも凝縮したのが信仰なのです。
要するに、信ずる対象であるその宗教の教えを、自分の人生の根本として信じきる、そして手を合わせて拝むというところまで崇めるわけですから、友達を信頼し尊敬することなどとはくらべものにならないほど、信じ切り、尊敬しきるわけですね。
だから信仰をするということにおって、友達の影響を受けるよりも、もっと強く深く、信ずる対象の宗教の教え、人生に対する指針だとか、そこに具わっている様々な教え、思想というものが、ストレートに自分の中に入ってくる、ストレートに自分の中に影響を及ぼしてくるのです。
さて、そこで何を信ずるかが、一番大事な問題になってくるわけです。
というのは、その宗教が、筋道の通らない矛盾した教えや、人間にとってマイナスになるような教えを説いているならば、その宗教を信仰することによって、自分の人生の上に必ずマイナスな影響が現れてくるわけですし、もしその宗教が本当に優れた教えを説き、人生の幸福にプラスになるようなことを説いているならば、それを信仰した人の人生には、プラスになる影響が出てくるわけです。
[ 2014/12/29 13:52 ] [ 編集 ]

お返事ありがとうございます。

突然の不躾な書き込みに対し、お返事ありがとうございます。
しかしながら信仰対象の正邪の判断に、ご自身の実体験を用いるのは大変危険と考えております。
なぜなら知人の顕正会員もほぼ同じ事を言っていたからです。

"朝夕の勤行を習慣付けたら元気になった、規則正しく起きれるようになった"
"行き詰まった時に顕正会に誘われ、信心したら問題が解決していった。"
"この感覚は入信しなければ得られない"

これらは信仰対象云々ではなく、自身の信仰に対する姿勢・心境の変化の方が大きいのではないでしょうか。
自身に起きたことが自身にとって、功徳なのか罪障なのかは臨終の瞬間まで、あるいは臨終を迎えても判らない物だと思います。
その時起きたことがプラスに感じても、後々のマイナスの要因となることもあるからです。
自分で判断できるのは、こうしてここまで生きている選択をしてきた、ということだけではないかと思います。
ですから実体験がどうであれ、正しいものは正しい、間違っているものは間違っている、ということに尽きると思います。

ここまで批判的なことばかり書き込んでしまいましたが、ミミさんの顕正会の誤りの検証は大変参考に
なっております。知人の顕正会員の、一見筋の通った主張の中にある違和感の答えが得られることも
多々あります。今後も参考とさせて頂きたいので宜しくお願いします。
[ 2014/12/29 16:34 ] [ 編集 ]

jvx-cさんへ

いえいえ、決して不躾だなんて思いませんよ(^-^)
ありがちな皮肉交じりのヤジのようなコメントとは一線を画する真摯な御指摘に、こちらが感謝申し上げなければなりませんm(__)m

日蓮大聖人様は、「人を善(よ)く成す者は、方人(かたうど)よりも強敵が. 人をば善く成しけるなり。」と仰っています。

仰る通り、ご利益の有無というのは宗教の正邪に対する明確なものさしには成り得ません。

ただ一方で、「現世安穏」を教義として標榜する以上、自宗の正当性を道理・文証の上から説明すると同時に、信仰した結果である現証も合わせて示してこそ、初めてその宗教から実践に値する価値観を見いだせるのではないでしょうか?

理屈のみに終始するばかりでは、単なる卓上の空論にならざるを得ません。
ただし、
「自身に起きたことが自身にとって、功徳なのか罪障なのかは臨終の瞬間まで、あるいは臨終を迎えても判らない物」
「その時起きたことがプラスに感じても、後々のマイナスの要因となることもある」

とのjvx-cさんのご意見に対して言えば、私も基本的にはかなり近しい感覚をもっていて、功徳・罰・罪障消滅・魔障という義は主体である自身の命によって常に変化する性質がある以上、ある事象をどれかに当てはめようという事自体、強引で無理のある話だし、あまり断定的に結論付けることは差し控えるべきだと考えます。
特に、罰と罪障消滅はタイミングを誤るとむやみに人を傷つける性質があると思います。

あまり下手に乱用しないように、慎重に記事を書き進めていきたいと思います。

自分自身、本当に「検証」と呼ぶに相応しい充実した内容の記事が書けているかといえば、まだまだ全然至らない感が拭えませんが、及ばずながら参考にして頂けるような記事が書けるよう引き続き頑張ります!
また何かありましたら宜しくお願い致しますm(__)m
良いお年を(^-^)
[ 2014/12/29 21:52 ] [ 編集 ]

明けましておめでとうございます、「http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1975428/1983418
このブログの中で 顕正会員が安藤美姫さんとその親御さんの中傷をしていました
匿名のネット内とは言え有名人の方を名指しで中傷するのは許されるんですか?気に入らないからと言って悪口や中傷をするのが顕正会のやり方なんですかね?人間としてどうかと思います。
[ 2015/01/01 11:40 ] [ 編集 ]

匿名さんへ

あけましておめでとうございます!
顕正会の信仰しているとあぁゆう命になってしまうんですねぇ。
仰る通り、実際に「気に入らないからと言って悪口や中傷をするのが顕正会のやり方」なんだと思います。
あのブログはこの先どういった末路を辿るのでしょうか…。
[ 2015/01/01 14:14 ] [ 編集 ]

遅ればせながら

1周年おめでとうございます。

…人は弱い生き物なのです。

例え他愛のない悩みでも結局は自分次第、
周りがどう助言したところで詮無いことなのです。

私は顕正で信仰するまで他人とまともに会話することが怖かったです。

周りの人間からもいろいろ助けていただきましたが、
根本的な解決に至ることはありませんでした。

それにしてもリンク先の現役会員のブログ!
ひどいものですね、人間誰しも浮き沈みはあるでしょうに。

ましてやネットの記事ってずっと残るのだし、不特定多数の人間に読まれるのですから。
[ 2015/01/02 19:07 ] [ 編集 ]

添え物は初音的なネギさんへ

ありがとうございますm(__)m多くの方々の支えがあって何とかやってこれました!
それから、あけましておめでとうございます(^-^)

確かに、自分次第ですよね!
弱い生き物ですが、一方「考える葦である」とパスカルが言ったように、強い一面も兼ね備えているのだと思います。
打ちひしがれることは、決して折れることではなくて、その経験を良き材料できたならば、前に進むことができるし、そういう建設的な生き方ができるのも「人」だと思います(^-^)

あのブログは顕正会で信仰するとああいう風になってしまうという良い反面教師のブログの様ですね(^-^;
[ 2015/01/04 13:55 ] [ 編集 ]

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[ 2015/06/23 19:25 ] [ 編集 ]

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