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御開扉は“不敬”との偽り

まず、過去に何度も浅井会長を妙信講を率いて御開扉を受けていた事は御存じかと思います。
昭和49年4月、解散処分が下るギリギリまで妙信講は登山の申請をしています。

浅井会長自身も、
「一分の信心あらん大石寺の信徒がどうして御内拝を願わぬことがあろうか。」(冨士271号)
「およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として『死ね』と云うことであります。」(冨士271号)
と過去に発言しております。
変ですね?顕正会は“一貫普遍の大精神”ではないのでしょうか?

更に先師上人も以下の様に仰せです。

『未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ』( 日寛上人『寿量品談義』 )

『先々門弟は登山して一閻浮提第一の仏様に御目に懸って、御礼を申上る筈の事で御座る。』(30世日忠上人 妙喜寺文書)

顕正会が御在世の信行に立ち返ったというのであれば、

「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」(四条金吾御返事)
との大聖人様仰せの如く、むしろはげんで登山するべきではないでしょうか。

また、“戒壇の大御本尊様を営利の具にしている”などと誹謗しておりますが、これは御開扉の際の御供養の具体的な金額まで知らない会員さんへに対するイメージの植え付けであり、大変な悪意を感じます。
実際私も顕正会時代は、「数万円程とられるのでは?」といったイメージをもっておりました。

実際聞いたらビックリします。

それに阿仏房に例をみる如く、参詣の際の御供養の精神とは所詮「信心」より起こるもの。
仮に手ぶらで大聖人様にお会いしに行くなどという者があったならば、その人正に「不信の者」、かえって“不敬”となりましょう。

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