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“御相承を成し得なかった”との偽り 2

御相承について平成4年8月28日に日顕上人が御講義された記録が『大日蓮』のH4年10月号に掲載されています。御相承の“儀式”に関しての基本的な考え方ということで御参考に‥


『儀式は基本的には行われる形があります。しかし、何上人から何上人の場合にはきちんとした儀式の形で行われた、したがって過去においても儀式がなければならなかったし、今後もなければならないのだというように、宗門史全体のなかからの一部の儀式が行われたところだけを基準にして相承の在り方を云々することは、相承の本質をわきまえない盲見です。
例えば、日目上人から日道上人への御相承も、いつ儀式があったという記録はないのです』(27ページ)

『たいていの場合、相承を受ける方は既に教学の基本は把握しているでありましょうから、大事な問題について、また要点だけを、特にお示しになればいいわけです。(中略)ですから儀式という形を取ったことを基準にして、それがはっきりした形でなければ権威がないというように判断することは誤りなのであります。』(28ページ)

また堀日亨上人も儀式という事について客観的、学究的立場で考えを述べられた後に、
『此は局外者の抽象的の議論である。直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜しい』(大日蓮 大正12年4月号)
と仰っています。

また御相承自体に関しては

『我見をもって考える者は、金口というからには、そこに必ず万人に判るように、授者と受者が相対したところの形がなければならない。つまり、仏様が、あるいは御先師が直接、次の方にお話しになり、それをまた、次の方が直接に聞かなければならないと考えるのです。たしかに、これが基本であります。
しかし、だからといって一器より一器への伝承は、必ずしもそうでなくてはありえないということはないのです。ところが、そうでなければ金口は成り立たないというように、自分の勝手な我見で判断する者がいるのです。
実は、そのように唯授一人の相承について、自分の拙い我見でもって推し量ろうとするところに、種々の疑問や質問が出てくる元が存するのです。』(21ページ)

と、御相承に関しては御歴代からその時に応じた、またはその状況に最適な形がとられてきたのであり、ああだから駄目、こうだからなかったなどと内容も知らない在家信徒が、一々取り上げて論ずる事ではないのです。

『実は細井管長は、貫首としての最も重大な責務である「御相承」を、急死によってなし得なかったのである。』(折伏理論書P266)と、短絡的に何の根拠もなく御相承を否定していますが、実に浅はかで幼稚な御都合主義者の難癖であるかが窺えますね

日達上人から日顕上人へのを御相承を認めてしまったら、同時に顕正会は存在意義を失う事になるわけですから、浅井会長は御相承がどのようなものか、もし知っていたとして、口が裂けても会員には教えないでしょう


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