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富士門流から発生した異流義団体の特徴

日蓮正宗入門(P222~223)より。

三鳥派(さんちょうは)

三鳥派は、江戸時代初期の寛永年間(1630年代)に三鳥日秀(にっしゅう)が起こした異流義の一派です。日秀ははじめ、江戸常在寺において第十七世日精上人に帰伏し、数年の間は随順していましたが、後に大石寺の法義に違背して異流義を主張するようになりました。
日秀の没後、三鳥派の一潮日浮(いっちょうにっぷ)は、自己を日蓮大聖人に匹敵させるのみならず、さらには大聖人を超克しようとし、自らを無辺行菩薩の再誕と名のりました。このように日浮は、荒唐無稽(こうとうむけい)の新義を創出して人々を惑わし、また本尊まがいのものを書いて授与し、多額の金銭を貪り取るなどの悪行を重ねました。
この三鳥派は、「妙法」の二字を唱えることが、宗祖の教えであると主張し、独特の呼吸法と神秘的な利益を売り物にして、江戸後期には一時的に隆盛しましたが、瀑布により禁制の不受不施派(ふじゅふせは)と同様であるとされ、中心者らは死罪等の刑に処されて江戸末期には壊滅しました。

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堅樹派(けんじゅは)

「堅樹派」は、江戸時代後期の明和九年(1772)、堅樹日好(にちこう)が起こした異流義の一派です。日好は本迹一致の身延門流から大石寺に帰伏しましたが、まもなく大石寺批判を重ねるようになり、離反して異流義を唱えはじめました。
日好は「大石寺は大聖人の正統ではあるが、折伏をしないから法水が濁っている」と大石寺を誹謗して「我こそは大聖人・日興上人の正統である」と自賛し、さらに「御本尊は折伏を行ずる者の胸中にある」などの邪義を立てて、強引に布教を行いました。しかし、このような布教が幕府の取り締まりの対象となり、主導者であった日好は投獄されたうえ、はじめは三宅島に流され、次いで利島に流されて在島三十八年の後、文化(ぶんか)九年(1812)に罪人のまま七十四歳で寂しました。
その後、門下の臨導日報(りんどうにっぽう)が日好の義を受け継いで大石寺批判を続けたため、第五十二世日でん上人は『異流義摧破抄(いりゅぎさいはしょう)』を著して破折されました。しかし、自説に固執する日報が『聖語明鏡顕魔論(せいごみょうきょうけんまろん)』をもって反抗してきたため、日でん上人は『叱狗抄(しっくしょう)』を送って再度強く破折されました。
日報は、その後も大石寺を誹謗し続け、臨終には悪相を現じて非業の最期を遂げています。
この日報の臨終の姿から、その信仰に疑いをもった弟子・佐野広謙(こうけん)(妙寿日成尼)・富士本智境(ふじもとちきょう)日奘(にっそう)が、明治七年(1874)に日でん上人のもとに帰依し、強力な折伏を展開したことにより、堅樹派に感化されていた人々も、徐々に大石寺に帰伏するようになりました。
このようにして堅樹派は、日好から百数十年を経た明治中頃にその流れを止めました。

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三鳥派においては、
「本尊まがいのものを書いて授与」
「神秘的な利益を売り物に」

堅樹派においては、
「大石寺は大聖人の正統ではあるが、折伏をしないから法水が濁っていると大石寺を誹謗して、我こそは大聖人・日興上人の正統であると自賛」
「御本尊は折伏を行ずる者の胸中にあるなどの邪義を立て」
「強引に布教」

異流義の特徴というのは今も昔も似たり寄ったりなんですね~

しかし『魔』としての使命を果たし終えた後には、あっけなく消えてゆくものなんですね

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