スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] |トップページへ戻るスポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

「功徳があるから正しい」というのは謀り

近年、顕正会では「難しい事はわからなくても良い、信心口唱・一念信解で良い」などと指導が徹底されており、その為教学を軽視する会員さんが増え、よって思考能力は著しく低下、結果、幸福の本質を見失い、価値・反価値の分別すらつかない、これは大変深刻な状況に陥っている様に思えます。
諸宗の破折に関しては「功徳の体験談」で十分、「邪宗は功徳がないのだから、功徳の話が即、破折となる」と説いています。一見その論理を正論の様に感じてしまう顕正会員さんには、もう一度幸福の定義を良く見直して頂きたいです。
『蔵の財より身の財、身の財より心の財』
臨時収入や一時的な病の治癒といった飴玉の様な現証が、果たして真の功徳といえるのでしょうか?


大聖人様は
『但し法門をもって邪正をただすべし、利根(賢いこと)と通力にはよるべからず』(唱法華題目抄)
と仰っております。

顕正新聞の体験発表などを閲覧していると、「まるで魔法の様に」といった表現を見かける事がありますが、その本質は読んで字の如くですね。その様な不思議な現証を「功徳」と断定する事は全くもって不適当なのです。

浅井先生は、「所詮正しい道理と文証に裏付けられぬ現証は、ごまかしに過ぎない」(理論書296)
と指導しておりますが、法華講員との法論から必死に逃げ回っている顕正会員さんの姿こそ、会の教義に「正しい道理と文証の裏付けがない」事を証明をしている、実に明瞭な「現証」ではありませんか?
 
それから、
「法に依って人に依らざれ」(釈尊 涅槃経)
「最後の御遺言に云はく『法に依って人に依らざれ』等云云。 (開目抄)
 「涅槃(ねはん)経に云はく『法に依って人に依らざれ』云云。痛ましいかな悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還(かえ)って仏法を滅す」 (三世諸仏総勘文教相廃立)

なぜ浅井先生は御書全集を発刊しなかったのか?
会員さん達に法の全てを開示してしまったら顕正会が正しくないのがバレてしまうから、偽りの功徳という事がバレてしまうからですね。
浅井先生の用いる御書はいつも同じ御書ばかり‥
御書は全部で四百余編。
「全て大事」です。
また、特に相伝書に関しては多くのものが会員さん達に秘密にされています。
都合の悪い御書や相伝書を隠す行為と、不相伝の日蓮宗が何でもかんでも偽書扱いにして自宗を正当化している謀りとが、同じ類だという事に気付いて頂きたい。
先生が指導して下さる御書だけ学べば良いというのは、法ではなく人に依っている姿ではないですか?

更に大聖人様は、
『故に弘決の八に云く「若し衆生生死を出でず仏乗を慕わずと知れば魔・是の人に於て猶親の想(おもい)を生(な)す」等云云、釈の心は人・善根を修すれども念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば魔王親のおもひをなして人間につきて其の人をもてなし供養す世間の人に実(まこと)の僧と思はせんが為なり』 (種種御振舞御書)

邪僧をさも正しい僧の様に世間の人に思わせる為に、魔がその人をもてなし、供養する。‥との仰せです。

六道が自在の天界の衆生にとっては、鬼神に化ける事も容易です。

不思議な現証から得た確信など、ごまかしに過ぎない。

ごまかしに翻弄され、盲目となっている人達に「功徳」を語る資格など断じてありません。

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://yorori1130.blog.fc2.com/tb.php/69-77a0ac2b











上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。