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浅井先生は日寛上人の再誕説

全ての会員さんが、というわけではないのでしょうが、顕正会員の中では浅井会長の事を「日寛上人の生まれ変わりなのだ」と信じて疑わない人が多くいらっしゃるのは事実ですね。

その「勘違い」の根拠となるのが、浅井会長の講演における、「自分こそ日寛上人の生まれ変わり」と暗にほのめかす様な数々の発言です。

その中でも代表的なのが、平成18年12月10日に挙行された、「群馬会館御入仏式」での浅井会長の講演です。

群馬会館

この講演の中で、浅井会長は、

「日寛上人は大聖人御在世の時と、広宣流布の時と、その中間にお生まれになる。」

と、突然この様な邪説を唱えたのです。

この時は私が顕正会員として頑張り始めた当初で、耳にたこができる程「CD」で、この講演を繰り返し聞いていた為、とても良く覚えております。

なので、
間違いありません。

しかし顕正新聞紙上では実際の講演内容とは異なる内容が掲載されておりまして、
以下の様に修正されております。

群馬日寛上人

元顕正会幹部会員さんなら御承知の事かと思いますが、浅井会長の生の講演と新聞に掲載される内容とではしばしば異なります。

まぁ、新聞の本文自体も浅井会長自身が筆を執って書いている事なのですが…。

さて、検証する事自体がもはや、「くだらない」事ですが、

勿論、日寛上人が御在世の時の何方かであり、広宣流布の時に再誕されるなどという説は、
全くの空論です。どこにもその様な説はございません

いつも根拠のない事を堂々と言い切る浅井会長ですが、これ、あらゆる邪教の教祖さんの共通点ですね。

大聖人様は、
「唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」
「文証無きは悉く是れ邪の謂い」(持妙法華問答抄)

と仰せです。

その様な説がもし本当であるというのならば、歴代先師上人の御指南や、御書、相伝書の中から、文証を示すべきですね。

そして、本当の謀りはここから始まります。

以下は、講演の終盤の内容です。

群馬 日寛上人

このアップした2つの顕正新聞の画像に書かれている内容を良く読み比べてみて下さい。

いかがでしょうか?お分かり頂けますでしょうか?

つまり、

「日寛上人は20代の頃から御書の極理をほぼお解りになっていた。」

「私(浅井会長)は(も?)20歳の前に、父親がしまっておいた日寛上人の御筆記を自身の手によって見つけ出した」

「それを読んだ浅井会長は(も?)、自然と御書の極理を知るに至り、広宣流布を進める人となった」

「私(浅井会長)は不思議に思う」

と、こういう事です。

端的に言わないところが実にいやらしいところで、後は会員さん達の「拡大解釈」に任せます。

次は「六巻抄」を使った謀りを紹介します。

以下は「昭和60年8月19日」に顕正会から発刊されたものです。

六巻抄

六巻抄前書き

「底本(原本)のなかで、明らかに誤字・脱字と思われる部分は編者が校訂を加えた」

との事です。
編者は一応は「顕正会教学部」となっていますが、実際は浅井会長その人でしょう。

「あぁ、前世に御自身で書かれたものだから出来得る事なんだ」

と、間違いなく会員さん達は思う事でしょう。

何を隠そう、私自身が顕正会員時代、その様に信じておりましたからね。

その他にも、浅井会長は良く、日寛上人は群馬の前橋でお生まれになった事を話し、また浅井会長も群馬には縁があり、南蛇井(群馬県)から親戚を便って折伏を開始した事、両毛線に乗って良く御奉公に出かけたなどと会員に語ります。
いかにも、
「日寛上人の御姿と自分の姿が重なる様に会員の意識をコントロールしているかの様」ですね。

前橋に住む私にとっては特に許せない事です

今度は、顕正会員さんにとってもう少しメジャーな「浅井先生、日目上人説」について書いてみようと思います。

慢心の塊ですね

 浅井会長ってホント慢心の塊ですね。
 「御書を極理を排し」なんて言葉を一在家信者がそんな簡単には使ってはいけないです。折伏親が言っていたことですが、御書を本当の意味で理解するには何十年もかかると言っていました。それも、唱題・折伏といった自行化他の修行をしっかり行った上でのことです。「折伏すると新しい発見がある。」とも言われていました。

 弘法心を常にもっていないと浅識・計我に繋がります。御書を読んで分かったつもりになっているだけで、同じ文を排してもその都度新しい発見があったりするものです。

 この記事からも顕正会が異流義になった一因が浅井会長の勝手な法門の解釈であることが見えますね。
[ 2014/05/06 01:36 ] [ 編集 ]

この指導よ〜く覚えてます。

先生は日寛上人の御生誕なのね〜とこの時の指導を婦人部の部長が興奮して話していたのを今でも覚えていますが、当時の上長から先生は日目上人様の生まれ変わりとも聞き、広宣流布の時には先生が猊下に…と言われた時に、笑ってしまいかなりかなり怒られた事を思い出して懐かしく情けなくなりました。
[ 2014/05/06 08:14 ] [ 編集 ]

サワディーさんへ

コメント有難うございます☆

仰る通りです。

妙信講が発足したのが浅井会長が25歳の時。それからは講の運営等で忙しかった事が予想されますし、まもなくして正本堂問題が勃発します。なので、浅井会長自身、実は日蓮正宗信徒として、まともに信心していた期間で本当はとても短いんですよね…。
『身軽法重』ではなく、『法軽身重』といった様な感じですかね!
[ 2014/05/06 14:20 ] [ 編集 ]

元総班長さんへ

コメント有難うございます☆

本当なら笑ってしまうような事なのですが、顕正会の場合は大真面目に、真剣に信じてるんですよね(*_*;
私も経験ありますが、顕正会って修羅そのもので、後輩は自分の指導に理解を示さないと、キレるんですよね!その様な命になっていく事は、顕正会の代表的な害毒の特徴であると思います。

[ 2014/05/06 14:25 ] [ 編集 ]

日寛上人の再誕説

 些細なこと・微細なことに、大事なことが潜んでいます。
 ミミさんのご指摘に、あらためて気づきました。

 「日寛上人は20代の頃から御書の極理をほぼお解りになっていた。」
 「私(浅井会長)は(も?)20歳の前に、父親がしまっておいた日寛上人の御筆記を自身の手によって見つけ出した」
 「それを読んだ浅井会長は(も?)、自然と御書の極理を知るに至り、広宣流布を進める人となった」
 「私(浅井会長)は不思議に思う」

 池田大作氏にも、「千年杉」の逸話が伝わります。
 昭和52年 安房の清澄寺を池田氏が訪れた時、千年杉の木肌を撫でながら「久しぶりだね、七百年ぶりだね」と呟いたとか。
 自ら「仏教三千年 史上空前の偉業」「久遠元初以来の壮挙」(立正安国論講義、昭和41年)と、きっぱり著書に著したのですから、そんな逸話(その千年杉の樹齢は まだ約250年だった)など、些細なエピソードに過ぎませんが。

 浅井昭衛氏が、もし御書の極理を了解していたなら、「本門戒壇の本義」出版の直前に小生を除名処分にすることは、あってはならないでしょう。
 わたしは 悪口罵詈の除名処分を受けましたが、拙著を師恩報謝のため、浅井昭衛先生に捧げ出版しました。
[ 2014/05/06 18:10 ] [ 編集 ]

櫻川忠さんへ

コメント有難うございます☆

そうですね、顕正会時代はわざわざ意識する事はありませんでしたが、今考えれば、講演の中で言葉の端々に洗脳するためのワードが散りばめられていました。
私にとって浅井会長は「邪師」ではあったものの、「戒壇の大御本尊様」の存在を教え、「仏の尊さ」「法の重さ」を教えてくれたという意味においては、大変な恩のある人に違いありません。

池田さんが清澄寺を訪れた際のエピソードは顕正会時代から聞き及んでおりましたが、私の聞いた話では木をさすりながら「う~ん、懐かしい」と言ったとか…。

会を実質支えてきた、幹部会員をいとも簡単に切るようなマネは、大聖人様のお振舞いとは遠くかけ離れた、慈悲のカケラもなき所業ですね。

「本門戒壇の本義」は、随分前にネットで注文したのですが、以来音沙汰なかったので、注文履歴で調べてみたら勝手にキャンセル扱いになっておりました(*_*;

再度、注文手続きとろうと思います。
読んだら、感想を記事でアップさせて頂きます!
[ 2014/05/06 21:42 ] [ 編集 ]

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