スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] |トップページへ戻るスポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

『異例の認証式』についての真義

脱会者Aさんから頂いたコメントにもある様に、当時浅井会長がわざわざ総本山に呼ばれて御法主上人より認証式を受けた事をもって、顕正会に血脈が流れているという考えの根拠にしている顕正会員が少なくない事実は否めないと思います。

その理由としては、まず顕正会員が唯授一人血脈相承についての理解が乏しく、その意義について、我見で解釈している状況にあるということが言えると思います。

本来、日蓮正宗の教義信条に則って考えれば、在家の身分から御相承に関しての詮索自体が大変恐れ多いことであり、本当なら詳しく知る必要もなければ、詳しく知り得る事柄でもないように思いますが、
顕正会員は大体からしてその様な理念さえも存在しないため、御相承という事にどの様に考え向き合っていけば良いか、というところから、学ぶ必要があるのではないかと思います。

当ブログの過去記事において、日顕上人の御指南を掲載したものがありますので、参考にして頂ければと思います。
御相承に関してに日顕上人の御指南

また、この認証について、多くの顕正会員さん達の勘違いを生じてしまう大きな要因は、その当時の事が書かれた顕正会発行の「試練と忍従の歴史」という小冊子の文章構成自体に謀りが潜んでおり、真意の歪曲が行われているからだと思います。

以下、「顕正会 試練と忍従の歴史」(P15)

「しかし妙信講の切実な願いは、時の御法主上人・大六十五代日淳上人の御耳に達するところとなった。日淳上人はかねてより妙信講の信心を深く理解下されていたが、妙信講の広布の至情を嘉(よみ)せされ、ここに昭和三十三年一月十五日、宗門としては異例の講中認証が下されたのであった。(中略)さて異例の認証には、異例の儀式が行われた。通常「認証状」はただ伝送されるだけであったが、日淳上人は妙信講の首脳幹部をわざわざ本山に招かれた。そして「認証状」の授与に際して、特別にお言葉を下し給わった。」

如何にも妙信講が優秀であったがために、猊下がわざわざ本山に招いて下さったという様に、読み手としては感じ取れる様な書き方だという事がいえると思います。

しかし、事実は全く逆で、極端に言えば「問題のある組織であったがために、本山に呼び出しを食らった」といった状況であったというのが真相だったのではないかと思います。ちなみになぜその様な考えに至ったかといえば、この認証式に至るまでの経緯を知れば容易に推測する事ができるからです。

この部分の歴史、背景は櫻川さんの著された「迷走する顕正会を斬る」に詳しく書かれており、この一書は公になっている資料からの引文が多く、そういった面では非常に信憑性の高い一書であり重宝させて頂いております。

以下、断片的にはなりますが、櫻川忠さんの「迷走する顕正会を斬る」より、そのまま掲載させて頂きます。

『当時の法道院は増築を繰り返しており、特に昭和三十二年に二回目の増築計画いおいて、浅井講頭と主管の間に亀裂が生じたと、浜中和道師は指摘している。
「その頃の法道院は寺院規模も整っておらず、年々創価学会の折伏活動、自支部の折伏活動で増える一方の信者の方の収容ですら満足にできないものでした。会合にしても婚礼の控室にしても他の法要の控室も全て本堂で行わざるを得ない状態。故に主管はその充実をはかるべく増築を重ね、昭和三十二年に二回増築を計画されました。それをきっかけに浅井父子の法道院での権力拡大の策動が始まったのです。」』

と。また、

『妙信講が正式に講中の認証を得られた背景には、早瀬主管の特別な配慮があった。』

とあり、その裏付けとして、

『妙信講は法道院において、第二回総会を挙行した。(中略)妙信講再建総会(八月三日)も第二回総会(十月十九日)も法道院において開催されているのである。早瀬主管の了承なしに、会場として法道院を利用する事などはできない。主管が「面子にかけて妙信講を潰そう」としていたなら、妙信講に場所の提供など許すだろうか。竹尾氏が述べるように、早瀬主管は妙信講の行く末を心配していたのである。浜中師も「主管は、…一緒について行った人々の信心さえ離れなければと思い、日淳上人に取り為して妙縁寺への所属替えをお願いした」と述べている』

と早瀬主管の口添えがあって忝(かたじけな)く猊下様に執り行って頂いた事実が伺える事と思います。

つまり、私見での憶測になりますが…
指導教師のやり方(主に金銭面での工面)に異を唱え、随順できなかった、問題だらけの組織が、指導教師の懐の大きさと御法主上人猊下の大慈悲の御教導に助けられ、一応は一講中として認められはしたが、結果として、指導教師の恩を仇で返す様な行為であった事は事実ですし、法道会の離脱自体が単なる浅井父子の「わがまま」であった事に違いありません。

そういう意味での『異例』であったのではないかと思います。講中認証を決断された日淳上人様の心中を察することなど到底でき得ませんが、ただただ、そこに深い御慈悲を感じる次第です。

結局、浅井会長は自身を正当化するために、美化、着色を加え、歪曲し、本意を捻じ曲げ、それを読んだ会員の拡大解釈を図った、悪意の小細工だという様に思えてなりません。

破折本によると

「顕正会の悪義を破す」より
--------
 法道院から離脱した浅井甚兵衛ら一派は、昭和三十二年八月、「妙信講債権」を掲げ、浅井甚兵衛自らが講頭を名乗り、甚兵衛の長男の浅井昭衛(後の顕正会会長)を青年部長に据えて、勝手な行動を開始しました。
 この事態を憂慮された日淳上人は大慈悲の上から浅井親子を墨田区の妙縁寺に所属させた上で、正式な法華講支部として妙信講を認証されたのです。
-------
ということで、ミミさんの御指摘通りであったということで良いと思います。


さらに、
 正宗で移籍を許されるのは、原則として4つあるそうです。
  1.御法主上人猊下様の御命による
  2.婚姻・養子縁組等の場合
  3.小師が本師に違背した場合(正信会問題)
  4.信徒を退転に至らせぬための特例的な処置

 浅井親子の場合、当然4に該当するわけで、特別なんですね。
 
[ 2014/05/12 11:14 ] [ 編集 ]

サワディーさんへ

コメント有難うございます☆
いつも、明瞭で鋭い御指摘、有難うございます!
毎回、参考にさせて頂いております(#^^#)
[ 2014/05/13 23:00 ] [ 編集 ]

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://yorori1130.blog.fc2.com/tb.php/91-60f13feb











上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。