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『遥拝勤行』の誤りについて

理論書 遥拝
経本 遥拝

一番目の画像は“顕正会 折伏理論書”の5章、「遥拝勤行」についての説明。

二番目の画像は“冨士大石寺顕正会 勤行要典”で同じく、遥拝勤行の説明書きのところです。

「信心に距離は関係ない。信心さえ純粋強盛ならば、いかなる隔たりをも乗り越えて、ただちに大御本尊に感応し、大功徳を生ずるのであります。」
との事。

その文証として『千日尼御返事』の

「譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、(中略)御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」

との部分を引文して、教義の正当化を図っているわけですが、今回は、この引文自体が如何に根拠のない、荒唐無稽なこじつけであるか、という事について論証していきたいと思います。

顕正会の組織に嫌気がさして、活動を離れた様な人が、自宅に御本尊様がないにも関わらず、「自分は大御本尊様に向かって勤行しているから結構」といって、我見の殻に閉じこもり、自己満足して、なかなか日蓮正宗に帰伏するに至らないというパターンは案外多いのではないでしょうか?
「顕正会はもう懲り懲り!でも日蓮正宗も(顕正会で悪いイメージを植え付けられたが為に)嫌だ!だけど…。御本尊様は信じている」
といった顕正会退転者が、得てして、その様なパターンに陥り易いのも、顕正会の教義を良く知っている人間からすれば、その心情は容易に理解する事ができます。

しかし、
その様な考え方自体が浅井会長の嫉妬心から生じた、己義、邪義であるという事。
そして、そのような化儀は日蓮正宗において端(はな)から存在しないのだという事を良く知るべきなのです。

『千日尼御返事』の御述作の背景を考えてみましょう。

千日尼とは大聖人様が佐渡配流の時、帰依された阿仏房の妻です。
御書をお認めになられたのは、大聖人様が身延におられた時。
そして、弘安元(1278)年七月二十七日、阿仏房は九十歳の高齢でありながら三度目の参詣をしました。この年は疫病の流行はすさまじく、民衆の大半がこれにかかり、死んでいく者が後を絶たないありさまでした。
大聖人様は昨年、一昨年と姿を見せなかった阿仏房が、もしや疫病に悩まされているのではないかと、遠く佐渡を偲ばれ、その身を案じておられました。
その阿仏房の姿をみつけるや、いちはやく「尼ごぜんはいかに、こう入道はいかに」(御書P一二五四)
と尋ねられ、「いまだ病まず」との無事を聞いて、ようやく安堵された。
この時認められたのがこの『千日尼御返事』というわけです。

「去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」

と、大聖人様はこの様に、身延入山後、わずか五カ年のうちに、三度も高齢の夫を遣わした千日尼の深い信心を、大地よりも厚く、大海よりも深い志であると褒めたたえられています。

また、一度目の阿仏房の参詣の際には「国府(こう)入道」も一緒であられたそうで、その国府入道の妻である「国府尼」と千日尼に対し、

「さしも大事なるわが夫(おとこ)を御つかいにてつかわされて候。ゆめ(夢)かまぼろし(幻)か、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ 」(国府尼御前御書P七四〇)

と、二人の夫を遠き身延まで遣わした妻たちに対し、この『国府尼御前御書』を書き送られ、
「よくぞ大事な夫をさし遣わされた」
と、その強盛な信仰を褒められたのです。

顕正会ではこの『千日尼御返事』は上記の「譬えば天月は…」の部分しか教えられませんが、その前述を知れば、「譬えば天月は…」の箇所の真の文意というのも明白となります。
即ち、
「佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に女人の御身として法華経を志しましますによりて年年に夫を御使として御訪いあり定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・其の御心をしろしめすらん」

要するに、危険な旅を承知で夫を送り出し、留守を守った老妻に対する労いの意味が込められているのであり、その様な主旨である事を前提としてこの『千日尼御返事』を拝するならば、“遥拝勤行”という事を正当化するための引文は明らかに誤りであり、顕正会の都合に合わせた文意の歪曲である事にお気づき頂けると思います。

つまり、
「大聖人様に一目お会いしたい!」という身命を惜しまない修行の姿が仏意に適うということであり、

それは正に「御登山」の精神であり、
また、「三宝」に対し奉る「御供養」の精神なのです

大御本尊様にお会いしようともせず、また供養することもせず、「遥拝で十分」などと抜かしている、仏法の中途半端な理解者が、仏様に認められる道理など断じてないのです。

日蓮正宗に帰伏して、仏様の御心に適った信心をさせて頂きましょう

内得信仰

 御受戒を受けていない顕正会員がいくら大石寺に向かって唱題しても、壁に向かって唱題しているだけのこと。まして、会館のニセ本尊に唱題しているのは魔を供養していることに他なりません。会館に通っている人の方が洗脳が深く、魔が養ってくれている状態なのも頷けます。

 仏様と自身が繋がる御受戒って重要なんです。顕正会の遥拝勤行と称するものと、御本尊様を下付されていない法華講員がしている内得信仰とは雲霊の差です。

※以前、顕正会員に会館のニセ本尊を指摘したら、「自分達は遥拝勤行だから良いんだ。」と返してきました。あまりのことに唖然としました。
 
[ 2014/05/22 12:10 ] [ 編集 ]

サワディーさんへ

コメント有難うございます☆
確かに!顕正会館に行けばいくほど、ニセ本尊に向かって拝めば拝む程、激しく悩乱していった実感があります!

顕正会員の中で、ニセ本尊をいくら指摘してあげても、何も感じない人は多いですね…。
[ 2014/05/25 11:41 ] [ 編集 ]

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