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『遥拝勤行』の誤りについて 2

前記事の続きになりますが、『千日尼御返事』御述作の背景とそこに含まれている本意たるものを顕正会員さんが柔和な心で実直に拝した場合、信仰上の組織の在り方について、現在の顕正会の組織論に相反する大きな相違点が存する事にお気づき頂けるかと思います。

そうです。大聖人様は阿仏房夫妻、国府入道夫妻の信仰上での組織形態を『一家・世帯』とし、一括りにして捉えておられるわけですね。

顕正会でも、顕正新聞に「信心の語り合いで一家和楽」等の記事をしばしば見かける事はあります。
しかし、基本的には男子・女子・婦人と三者にハッキリと分けられいますから、少なくとも同じ先輩から指導を仰ぐという事は一切ないという事は言えます。
決定的な違いはそこで、法華講の場合夫婦や親、兄弟であっても「支部」が同じであれば、共通の指導教師から指導を仰ぐのであり、各々の家庭の事情や個々人における家庭内での立ち位置、生活面での役割等を一通り把握した状態の上で指導教師が仏法の眼から仏意に叶ったアドバイスを下さるのです。
一家が生命活動の営んでいくにあたり、例えば家族の中に乳呑児がいれば、夫か特に妻が世話をしなければならないわけですが、顕正会では仮に両者の会合の日程が被ったりした場合、どちらかは御奉公ができない、功徳が積めない、と偏った考えに陥り、上長も大概は家庭の状況など汲んでくれないわけです。
ただ、全ての顕正会組織が今述べたままに当てはまるとは限りませんが、私の体験談として、婦人部大会の時、男子が送迎をする事に対し、部長は「そんな暇があったら折伏しろ」と同じ家庭内の顕正会員に対して、あからさまに非協力的な指導がありましたし、妻と一緒に折伏した対象者(男性)を私の紹介という事にして男子部で入信させた時、妻はその後婦人部長に「なぜ婦人に入れなかったのか」と、激しく罵倒された、という事もありました。これらはほんの一例です。
しかし多くの顕正会員が、現在この様な「家庭放棄」、「信心に関しては家庭内では不干渉」といった様な状態にあることは想像に難くありません。実際に顕正会の家庭不和話は良く耳にしますし、顕正会の活動スタイルを考えれば当然の報いだと思います。
浅井会長は「自他彼此の心なく」と指導しますが、実態が伴わないのは、心が狭く、余裕などまるでない、顕正会の害毒が如実に顕れていると言えます。
それでは、全ての組織を総括する存在は顕正会においては浅井会長唯一人ということになりますが、指導は常に一方的で、相談や質問など以ての外、もしお手紙など書こうものなら即、「除名」ということになります。
更には、会が同じなのだから、具体的に指導の内容が一貫していて共通であるのかといえば、全くそんなことはないわけです。
部によって「白」といってみたり「黒」といってみたり…
また同じ部内であっても、隊や区、支部が違えば、これもまた言う事がバラバラです。

顕正会は、御在世の信行の在り方を現代にそのまま移して実践していると主張しますが、それであれば、阿仏房夫妻のように、一世帯での信仰という枠で指導を受け、実践する修行こそが、大聖人様の御心に適った本来の在り方ではないかと思うのです。

日蓮正宗では「留守番の功徳」という事が言われております。

以下、『質問会集』より

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天台大師の『法華文句』で『法華経妙荘厳王品第二十七』について釈せられた中に、次のように説かれています。

昔、四人の仏道修行者がいました。ところが、仏道修行に出かけるには、誰かが残って家を守り炊事などしなければなりませんので、やむなく残ることになった1人は修行をすることができず、仏道を得る事ができませんでした。
ところが他の三人の仏道修行を支えるために留守番をした功徳で、その人は次の世に国王となって生まれました。その時、他の三人は、王の后と二人の王子として生を受けたのです。
そして再び仏法に巡り合った后を王子達は、過去世の修行の功徳によって、すぐに仏法に帰依することができました。
そして過去世の恩に報いるため、三人が力を合わせて王を教化し、ついに王も仏法に帰依することができた。
というのです。
このように、他の人達の仏道修行を支えるために、やむなく残って留守番をすることにも功徳があるのであります。

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前記事から少々話は逸れましたが、顕正会員さんが『千日尼御返事』を“遥拝勤行”を正当化する裏付けとして引文するに当り、まずは上記を前提として踏まえた上で、御書を拝して頂かない限りは、前記事の内容について、なかなか理解が及ばないのではないかと考えたからです。
とにかく「大聖人様に会いに行かなくても良い」と考えるのは単なる「懈怠」であり、「遥拝でお会いしている」と考えるのは、甚だしい勘違いです。

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